矛盾論の批判と克服(3)
毛沢東がこの『矛盾論』を書いたのは1937年8月でしたが、この時期までの共産党と国民党の歩みについて、毛は次のように述べています。
「国民党と共産党の両党を例にとろう。国民党の側についていえば、第一次統一戦線の時期には、孫中山(孫文)の連ソ、連共、労農援助の三大政策を実行したことによって、それは革命的で生気にみち、民主主義革命のための諸階級の同盟体でありえた。」(『世界の名著78 孫文 毛沢東』中央公論社、384頁)
(孫文は、毛沢東が「ブルジョア民主革命」と呼んだ路線に対して、民族、民権、民生という原則を打ち立て、これを三民主義と名づけました。その後、1924年、「国民党第一次全国代表大会宣言」において、このうち民族主義を「帝国主義反対」と定義すると共に、労農運動を支持する態度を表明し、連ソ、連共(共産党支持)、労農援助を三大政策とする新三民主義へと発展させました。これが国共合作の政治的基礎となります。しかしその直後、翌25年北京で死去。蒋介石がその跡を継ぐようになります。)
(註――この時、共産党員は個人の資格で国民党に参加し、国共両党は提携して第一次民族統一戦線を樹立した。これによって農民運動、労働運動は新たな高揚をみせ、やがて国民革命軍による軍閥打倒の北伐が開始された。)
ところが、「1927年以後、国民党はそれとはおよそ反対の側に変わってしまい、地主と大ブルジョアジーの反動的集団となった」(同、384頁)と毛沢東は述べています。
それに対して、「中国共産党の側についていえば、第一次統一戦線の時期には、まだ幼い党であったけれども、1924年から27年の革命を勇敢に指導した。しかし、革命の性質、任務、方法についての認識の面では、その幼稚さが現われていた。そのため、この革命の後期に発生した陳独秀主義(註――右翼日和見主義、大ブルジョアジーに迎合して、農民大衆、都市の小ブルジョアジーにたいする指導権を放棄する投降主義路線にまで発展した)が影響力をもち、この革命を失敗させたのである。」(同)
「1927年以後、共産党は、土地革命戦争を勇敢に指導し、革命の軍隊と革命の根拠地を建設したが、またもや冒険主義の誤りを犯して、軍隊と根拠地はいずれも大きな損失をこうむらねばならなかった。」(同)
しかし、「1935年以後、ふたたび冒険主義の誤りを正し、新しい抗日統一戦線を指導したが、この偉大な闘争は、いま(註――『矛盾論』発表の1937年の時点)まさに発展しつつある。」(384~385頁)
特に、1936年12月10日、西安事件(張学良らが蒋介石を西安に監禁し、内戦の停止と挙国抗日を要求した事件で、蒋介石はやむなくこれを受け入れ、釈放されたという事件)以後、国民党の政策は「ふたたび内戦を停止し、共産党と連合し、ともに日本帝国主義に反対するという側(抗日救国、抗日民族統一戦線)に変わって来た」(384頁)
このように、ロシアの十月社会主義革命はそのままストレートに中国社会に変化を及ぼしたのではなく、「中国の内部(国民党と共産党の特殊なあり方)それ自体がもつ法則性を通じて」(371頁)影響がもたらされたというのです。
国民党の側の孫文(孫中山)の連共政策(第一次国共合作)→ 孫文の死去 → 蒋介石の反共クーデター → 北伐(軍閥打倒)→ 国民党の独裁 → 張学良による蒋介石監禁 → 第二次国共合作
共産党の側の革命指導 → 個人の資格での国民党入党 → 陳独秀の右翼日和見主義 → 革命の挫折 → 日和見主義の清算 → 土地革命戦争の指導 → 革命軍と革命の根拠地建設 → 左翼冒険主義の失敗 → 軍隊と根拠地に大きな損失 → 第二次国共合作 → 共産革命の発展
しかし、ロシア社会主義がそのままの形で中国の革命として現れず、中国自体の社会の「特性」を通じて現れるというのは当然の話で、何の不思議もないのではないのでしょうか。しかしその特性が、毛沢東のいうように「法則性」といえるかどうかは分かりません。そこで次にこの問題について検討してみることにしましょう。
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