矛盾論の批判と克服(21)

毛沢東は、「人類の認識運動の順序」として、「人々はなによりもまず、多くの異なった事物の特殊な本質を認識し、そうしてはじめて、さらに一歩進めて概括をおこない、さまざまな事物の共通の本質を認識できる」(『世界の名著78 孫文 毛沢東』中央バックス、378頁)と主張しています。

 

しかし、この「多くの異なった事物の特殊な本質を認識」するに当たって、自分の敵をも愛して〝救い出そう〟という動機とその〝愛〟を可能ならしめる統一思想の二性性相(性相すなわち心と、形状すなわち体、男女などの陽性と陰性の対構造)と四位基台(心情すなわち愛に由来する共通目的のもとにその二性性相の円満な授受作用を求めるものの捉え方)の論理で多くの異なる事物の特殊な本質を捉えるのか、それとも初めから相手を自分と相容れぬ〝敵〟と見て、愛に基づく授受作用によって一体となろうというのではなく、何としてでも相手を自分の意のままに動かすか、相手があくまでも従わない場合には闘って断乎として〝滅ぼそう〟という、支配と闘争の論理(唯物弁証法)で、自分を取りまく多くの事態(事物)の特殊なあり方を捉える場合とでは、同じく「特殊」と呼んでも全然別のものとなり得るし、また、その特殊性を概括して共通の「本質」を導き出しても、それもまた全く異なるものとなって来るのではないでしょうか。

 

後者のようなやり方(唯物弁証法)で、毛沢東がつかみ出した「共通の本質」は、どれだけ細かく事態を正確に観察したとしても、それに従う人民を幸福に導くことができるはずがありません。

 

そのために、毛沢東は、支配と闘争の論理でうまくいく遊撃戦争の指導には成功しましたが、愛と許しの論理が必要な政治や経済――大躍進と文革には全く失敗しました。

 

一方、理屈ではうまく言えなくても、愛と許し(自由の尊重)の論理を一部導入した鄧小平が、第二次天安門事件のような残虐なこともしでかしましたが、大局的には、中国を平和で豊かな国にすることには成功したと思われるのです。

 

また、毛沢東は、「問題を研究するばあい、主観的、一面的、表面的であってはならない」(同著、380頁)と言い、「主観的というのは、問題を客観的にみるすべを知らぬこと、つまり問題を唯物論の観点でみるすべを知らぬことである」(同)と主張しました。

 

ここで「唯物論的」というのは、物事が心の働きに従って生ずるのではなく、物事がどういうわけか(毛沢東の信ずるところに従えば、矛盾によって)まず動き、後でその動きを心で捉えるという見方のことです。

 

しかし、現実は果たして、まず物が動き、それから心がそれにつれて受動的に動くというようになっているでしょうか。

毛沢東はこういう見方をしたために、まず、人民公社(物質的仕組み)をつくって、農民を一律に5000戸も一緒にし(集団化)、囚人のように働かせる(機械化)ということを平気でしたのです。

 

こういう農民の「心」を重んじない、唯物論的な物事の処理の仕方こそが、大躍進施策の失敗の根本原因なのではないでしょうか。

 

たとえば、ある県党委書記は、「人民公社で生産量を過少申告する農民の摘発運動を展開した。ある日には四十人以上が拷問を受け、うち四人がその場で死んだ。見かねて制止に入った青年も、がんじがらめに縛られてこん棒や革ベルトで全身を打ちすえられ、哀願しながら息絶えた。遺体は川に投げ棄てられた」(『毛沢東秘録〈上〉』扶桑社、295頁)

 

その信陽専区全体で、1959年11月から1960年7月までに、「拘留された者は一万七百二十人にのぼり、六百六十七人が留置場で死亡したという」(同)のです。

 

これなどは、唯物論的なものの見方が、いかに残酷非道なものであるかを如実に示しているといえましょう。

農民たちは、毛沢東の見方と同様に、管理者から単なる物質と見られており、唯物論的な非常な指令――「生産量の過少申告への摘発運動」が、〝死刑〟に値する重大犯罪と見られていることが分ります。

 

この過少申告の罪を犯した者はみな、地区によっては1万人以上も殺害されており、農民の「心」は全く無視され、毛沢東の指令に従わなかったというだけで、まるで虫けらのように生きる権利さえもないとみなされているのです。

 

問題を「唯物論の観点」で見なければならないという毛の主張が、どれだけ凶悪で人間性に反する残酷なものの見方か、あえて論ずる必要もありません。

毛にとって、農民の幸福(心)のために、食量の生産(物)があるのではなく、生産のために農民があり、生産増強のためなら何百人もの農民を殺してもいいというのです。これほど誤ったものの考え方はないといえましょう。

 

鄧小平が、一切の闘争を禁じたのは、当然とはいえ、絶望的な凶悪な事態を少しはましなものにしたといえましょう。

毛の大躍進政策の大失敗のために、「ひどい村では八十日間一粒の穀物もないというありさまだった」(『毛沢東秘録〈上〉』扶桑社、295頁)というのです。

 

生産(物)のために農民の心があるという唯物論的なものの捉え方をすると、こんな惨状を招くのです。そのため、「だれでも腹いっぱい食べられると宣伝された『公共食堂』は機能しなくなっていた」(同)のであり、実際、その前に、ただ空腹を満たすためだけの「公共食堂」(物の供給)など農民には何の魅力もなく、貧しくとも家族の団欒(心の交わり)の方がどれだけ楽しいか分かりません。

 

毛沢東の予想に反して、「公共食堂」は何よりも不評であり、至るところで廃止が求められました。

また、栄養失調で病気になり、農村を逃げ出す農民が多くなっても、監督は、「穀物がないのではない、九割の者は思想に問題があるのだ」(同)と言い、民兵に村を封鎖させ、都市部の各機関や工場には農村から逃げた者を受け入れないように指令を発したという例まであるのです。

 

これも、飢えよりは、共産党の管理体制が重要だと、農民の自由(心)や、さらには生死(物)さえも、管理体制の維持(物の中の物)よりも軽く見るものであり、唯物論という名の利己主義の極致で、共産党の存在意義さえあやしくなって来ます。

 

こういう価値観でいかに問題を「全面的」に見たところで、どうにもならないのではないでしょうか。

毛沢東は、こういう物の見方の基本を、全く一方的に唯物論に帰着させ、その上で、問題を研究する場合に、「主観的、一面的、表面的」ではなく、「客観的(唯物論的)、全面的、根本的」にものを見るというのです。

 

しかし、ものを見るに当たっての動機が、このように利己的、闘争的であるならば、いくら「客観的、全面的…云々」といって努めたとしても、その研究の対象となる〝農民〟や〝労働者〟を幸福にすることなど絶対にできるはずもなく、むしろ死ぬ以上の苦しみを与えるだけなのではないでしょうか。

 



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