矛盾論の批判と克服(11)
三、矛盾論の具体的適応例─文化大革命
さて、毛沢東は、すべてのものが矛盾から成り立っている(矛盾の普遍性と絶対性)ものとして、強引かつ独断的に結論づけた上で、今度はその特殊性と相対性に目を向けさせようとします。
「まず、物質のさまざまな運動形態における矛盾は、いずれも特殊性をもっている。人間が物質を認識するというのは、物質の運動形態を認識することである。なぜなら、世界には、運動する物質以外に存在するものはなく、物質の運動はかならず一定の形態をとるからである。」(『世界の名著78 孫文 毛沢東』中央公論社、377頁)
しかし、毛沢東がいう「世界には、運動する物質以外に存在するものはない」というのは本当でしょうか。労働者も「運動する物質」なのでしょうか。
毛沢東は5000世帯もの労働者をひとまとめにして政府の命令以下、法外なノルマを課してものを生産させ、こうして造り出した労働生産物を自由に売り買いすることをいっさい許さず、すべてを人民公社に収めさせましたが、このことは、毛沢東が本当に労働者を「運動する物質」だと考えて、精神的な欲求や喜びを完全に無視し、まるで機械のようにどれだけ生産の能率を上げさせるかということしか考えなかったことを意味します。
また、毛沢東の思う通りに行動しなければ、それを批判し、さらに自己批判させ、自己批判もしない者に対しては、「階級闘争」と称して徹底した処罰(暴力)を加え、そのために死んだり、自殺した者が無数にいました。それでも、これは「運動する物質」につきものの「矛盾」が、死ぬことによってなくなったというだけのことだと見たのでしょう。少しもそれをかわいそうだと思ったり、やり過ぎたと反省したという形跡がないのです。思想、信念というものがどれほど恐ろしいかがそこから分かります。
「物質のそれぞれの運動形態については、それとその他のさまざまな運動形態との共通点に注意しなければならない。しかし、とりわけ重要で、事物を認識する基礎となるのは、その特殊な点に注意しなければならないこと、つまり、それと、その他の運動形態との質的な相違に注意しなければならないことである。この点に注意してはじめて、事物を区別できる。」(同)
毛沢東は強調します。認識には「二つの過程」があり、「一つは特殊から一般へ、一つは一般から特殊へと進む」(同、378頁)として、「人類の認識は、つねに、このように循環しながら進むものであって、一循環ごとに〔厳密に科学的方法によるかぎり〕、それは一歩ずつ高められ、不断に深められていく」(同)のであると。
ところが、「教条主義者」は「矛盾の特殊性を研究し、さまざまな事物の特殊な本質を認識してこそ、矛盾の普遍性を十二分に認識でき、さまざまな事物の共通の本質を十二分に認識できるのだということがわかっていない。」(同)
「他方、事物の共通の本質を認識してのちもなお、まだ深くは研究されていないか、あるいは新たに現れてきた具体的事物について、ひきつづき研究しなければならないということがわかっていない。」(同)
「わが教条主義者はなまけ者である。……かれらは、一般的真理が、天からふってくるかのようにみなし、それをとらえようのない、まったく抽象的な公式にしたてて、人類が真理を認識する正常の順序を完全に否定し、しかも逆立ちさせてしまう。」(同)
すなわち、毛沢東としては、万能の「一般的真理」があると見て、いきなり「一般から特殊へ」と進んではいないというわけです。
では、毛沢東のこのような考え方が、実際の政治にどのように適用されて行ったのかを、毛沢東が主導した「プロレタリア文化大革命」(文革)の具体的展開と突き合わせながら、順次、見て行くことにしましょう。(『毛沢東秘録上、下』扶桑社より)
(a)大躍進運動と廬山会議
1958年、毛沢東は、西欧諸国やソ連に対する対抗意識のもとに、「社会主義社会における労働者階級と農民階級の矛盾は、農業の集団と機械化の方法によって解決される」(『世界の名著78 孫文 毛沢東』中央公論社、379頁)という自分で思いついた理論に基づいて、農家を中心に平均5000戸を集団化した「人民公社」を急速につくって、「多く、速く、立派に、無駄なく」飛躍的な生産増加をもたらそうと中国全土に号令をかけました(大躍進運動)。
彼の理論によるならば、この「生産手段の全人民所有」に基づいて、人民公社では、全員が公共食堂で無料の食事を支給されることになり、理想的な共産主義社会が一挙に実現されるはずでした。
しかし、現実には、責任者たちが大躍進の成果を誇示しようと穀物生産量を倍以上に吹聴したために、過大な供出を割り当てられ、そのノルマを果たせない末端幹部は「右傾」だと批判されるなどし、その無理がたたって、多くの農村は荒廃し、一部の地域では大量の餓死者や栄養失調による病死者が続出(2年後の1960年には、死者の総数は2700万人に達したといわれる)するなどして混乱の極に達しました。
そのため、軍のトップ──国防相の彭德懐(ほう・とくかい、ポン・ドーファイ)は、1958年末、自分や毛沢東の故郷である湖南省などを回り、鉄鋼生産で人手をとられ、穀物増産の過大な重圧に苦しむ農民たちの実態をつぶさに見て、その実情を毛沢東宛の3500余字の手紙にしたためて、急進政策の本質的欠陥に鋭くメスを入れ、経済法則より政治を優先させる「プチブル的熱狂性」が「左翼偏向」を犯してこのようになったのではないかという自分の感想を述べました。
毛沢東は、彭のこの指摘が自分に対しての批判であると見て腹を立てたのか、この手紙が“私信”であったにもかかわらず、それを周恩来に見せ、さらには、これを印刷して2日後の会議参加者にも見せ、これを「組織的で目的をもった右傾主義の綱領」だと評価するのです。
さらには、毛の権威を傷つけたとし、彭が他の三人と「軍事クラブ」という反党集団を結成していたと断じて、1959年7月の中央委第8回総会(廬山会議)で、彭の職務解任を決議。その代わりに、毛沢東の権威を絶対的なものとして奉ずる林彪を任命しました。
(その後、この林彪は『毛沢東語録』を数億部編纂して毛を神格化し、毛の妻──江青たち四人組と共に、毛沢東思想を絶対視する「プロレタリア文化大革命」へと突き進むようになります。)
毛沢東は、この彭德懐の解任を皮切りに、中国の大衆を鼓舞して自力更生のための国家総動員態勢を敷くようになりますが、その裏にはもう一つ、社会主義国家の盟主──ソ連の指導者(党第一書記)フルシチョフが、第20回党大会の閉幕の直後の、1956年2月24日深夜、7時間にわたって「個人崇拝とその結果について」と題する報告でスターリン独裁についての徹底的な糾弾を行い、スターリンと一線を画する「修正主義」路線を取るようになったことが挙げられます。
このソ連の影響を受けて中国にも「修正主義」が拡がるのを恐れたというのです。
実は、1957年12月、毛沢東一行がモスクワを訪問した時に、フルシチョフは毛沢東を無視し、その横にいた彭德懐に「天才的戦略家だ」という最大級の賛辞を送り、彭も「われわれの業績は偉大なソ連の支援のもとで得たもので、あなたを忘れることは永遠にありません」と持ち上げました。
そのことが、ソ連に対する不信と対抗心を抱くようになった毛沢東を刺激し、ソ連と彭德懐の関係に疑念を持つようになったことが、この解任の動機となったのではないかと見る者もいます。
これらのことから、はっきり分かって来ることは、毛沢東は彭德懐の見解がマルクス・レーニン主義の正統な理論と合致するかどうかということにだけに目を向けて、農村の荒廃という現実については事実上全くと言ってよいほど関心を寄せていなかったと言うことです。
彭德懐が、「経済法則より政治を優先させる左翼偏向」と言ったのは、実際の論文を読んで見なければ正確には分かりませんが、「集団化、機械化」ということで5000戸もの農民を一つに束ね、「多く、速く、立派に、無駄なく」という標語のもと、リーダーが途方もない生産量を自己申告し、それを「自主的」に実現するように強いる。しかも生産したものを自分で売りさばいたりすることを全く許さず、全部、人民公社に納品させる。こうした監督者全能の、まるで終身懲役のようなやり方のことを「政治」と言ったのでしょう。
それに対して、「経済法則」というのは、生産する農民の気持ちになって、やる気になれるように計らうこと。たとえば、「大躍進運動」の中で、農村で自然発生したと言われる「包産到戸」(生産の戸別請負制)──各農家が農業生産を請け負い、超過分は報酬を受けるというような、管理者の愛のこもった進め方のことでしょう。マルクス主義の固定観念にもとづく集団化、機械化方式(政治)を、仕事をやる気にさせるやり方(経済)よりも優先させる「左翼偏向」(マルクス主義至上主義)。これではいけないと彭德懐は主張したのでしょう。
それに対し毛沢東は、「組織的で目的をもった右傾主義の綱領」だと片付けてしまいました。これは、現実もなまの人間性をも配慮しない、なんと硬直化した評価でしょうか。