矛盾論の批判と克服(9)
この創造過程にはどこにも矛盾というものはありません。矛盾が生ずるようになったのは、人間が自己中心的な欲望によって神から離れて堕落してしまった結果です(この過程の説明は複雑なので、そのことについては『統一思想要綱』を読むか、統一原理の講義を聴いていただけばと思います。)
この統一思想の立場から見れば、人間以外のすべての存在(天体、鉱物、植物、動物)には矛盾というものはなく、人間と人間の集まり――社会のうちにだけ矛盾があり、その矛盾は神がこの宇宙、人間をどのように創造されたか(創造原理)、その創造された立場からどのような過程を通って堕落したか(堕落論)、その堕落した状態からどうすれば本来の位置に戻れるか(復帰原理)についての統一思想(もっと的確には統一原理)の説明を読んでよく考えれば、どのようなものか理解できるようになり、その矛盾から脱出することができるようになります。
具体的にそのポイントを述べれば、一人一人が完全な愛の人となり、人のために生きることを自分の生き甲斐とするようになり(性相と形状の統一)、同じように愛の人となった異性と結婚して(陽性と陰性の統一)、愛の家庭を造る。その家庭で子女を生み殖やし、夫婦・父母・子女・兄弟姉妹という家族における四大心情圏を確立し、その家庭を拡大して氏族、民族、国家、世界の平和を形成し、地球全体を神を中心とする巨大な一家族とするということです。
(現実的には、これではあまりに時間がかかりすぎるので、完全な愛の家族関係を構築した家庭を中心として、「祝福」という手続きによって、一度にこれと同様の世界全体の愛の秩序を確立して行こうとしています。)
このようにすれば、すべての矛盾、闘争は消滅していかざるをえません。唯物論、無神論を前提としてものを考えるから、矛盾をなくすためには死ななければならないということになるわけで、有神論、一元二性論に基づく神中心の愛の世界的秩序を造ることができれば、死なずとも矛盾はすべて消えてゆかざるをえないのです。
(k)デボーリン学派への批判
なお、毛沢東はこれまで紹介したように、唯物論、無神論を前提とする、「矛盾の普遍性」の主張の吟味として、「しかし、それぞれの過程の、最初の段階でも矛盾が存在するかどうか。それぞれの事物の発展過程には、始めから終りまで矛盾運動があるかどうか」と問いかけて、ソ連のデボーリン学派の主張を批判しているので、この批判についても統一思想の立場から検討を加えておくことにしましょう。
ソ連のデボーリン学派は、「矛盾は、過程のなかに最初から現れるのではなく、過程が一定の段階にまで発展してはじめて現れるのだとみている。そうだとすれば、それ以前においては、過程の発展は、内部の原因によるのではなく、外部の要因によることになる。このように、デボーリンは、形而上学の外因論と機械論にたちかえってしまった。」
前にも説明したように、レーニンが挙げた六例のうち、人間の行動とは無関係の最初の五例のうちにはひとかけらの矛盾もなく、人間がかかわっている最後の「階級闘争」は奴隷主と奴隷、武士と一般庶民、資本家と労働者の利害が一致しないことによって生じ、利害の不一致は人間(特に支配者)の自己中心の排他的欲望によって生じたものだと考えざるをえません。
その矛盾は、毛沢東がいうように、その対立関係が生じた「始めから」あったに相違なく、発展の途上で生じたものではないと思われます。また、その間に生じた階級闘争は外部の要因によってもたらされたという点は少なく、内部の要因によるところが多いと思われます。
また、闘争の過程が終始同一だったとは見られず、この不平等が解消されるまでにはさまざまの変化、発展があったことでしょう。
したがって、「外因論」「機械論」がこの矛盾の発展の説明としてはふさわしいものではないということも承認できます。
しかし、ここでの矛盾の解消が不可能で、一つの矛盾が解消されてもまた別の矛盾が発生して来るという見解には賛成できません。人間社会に矛盾が生じて来るのは人間が自己中心の排他的欲望を持ち続けているからで、これがなくなり、すべての人間が人のために尽くすことに喜びを感じ、真の愛の人となれば、すべての矛盾は消え去っていくのです。「矛盾をふくまない事物などはありえず、矛盾がなければ、世界はない」などというのはどう考えても誤りだと言わなければなりません。