Archive for 8月, 2013

矛盾論の批判と克服(15)

(f)「劉鄧打倒」の暴走

 

 そうこうするうち、1966年10月16日、北京で開催中の中央工作会議で、中央文革小組の組長、陳伯達は、毛沢東が自らの大字報で「砲撃せよ」と言った司令部とは、ブルジョア反動路線の頭目である劉少奇と鄧小平だとはじめて明言しました。

 

この二人への「反動路線」批判は、直ちに街頭に張られた大字報によって伝えられ、マスメディアを通じて、全世界に向かって報じられるようになります。

林彪もこれに調子を合わせて、「党内には『劉・鄧』のように大衆を圧迫する反革命路線と、大衆に依拠し発動するプロレタリア革命路線という二つの路線の対立がある」と言いました。

 

 これに対して北京農業大学附属中学の二人の学生が、「林彪は毛沢東を持ち上げ過ぎであり、文革の中で起きている問題を理解していない」と公開質問状を提示し、それに呼応して文革発動初期に活動した北京の〝古参紅衛兵〟たちが、「首都紅衛兵連合行動委員会」(連動)を結成。中央文革小組への批判を開始します。

彼らは党や人民解放軍幹部の師弟が多く、親や家族が「ブルジョア反動路線」批判や古参軍幹部批判にさらされていたのです。

 

 こうして互いに相手を「反革命」だとして武力闘争が頻発するようになったのに対し、「中央文革小組をほうり出し、自分たちで革命を起こそう」(北京林業学園学生、李洪山の大字報)と独自路線を提唱するグループも現れ、北京大学などに広く影響を及ぼすようになります。

 

 これに対して多数派紅衛兵は、「死を賭して毛主席、林彪、中央文革小組を守ろう」と呼号して街頭で反対派紅衛兵と武闘。同時に中央文革小組は治安部隊を出動させて、李洪山派の一斉逮捕に踏み切り、それに対して連動は公安当局を襲撃。

これに対して、林彪、江青派の紅衛兵らによる党、政府、軍の指導部に対する容赦ない弾圧が12月に始まり、元北京市長の彭真、陸定一、元総参謀長の羅瑞卿などに対して容赦のない拷問が加えられました。

 

 さて、毛沢東が「実権派」と呼ぶ劉少奇、鄧小平ら党中枢の多数派を打倒するためには、彼らが握っている党中央や地方党委員会の組織をつぶして、新たな革命組織を構築する必要がありました。

 

 その革命の手始めとして、1966年末、まず文革の中心――「上海紅衛兵革命委員会」(紅革会)が上海市党委員会の機関誌――解放日報を武力封鎖しました。上海の造反派の中心は労働者(工人)組織の連合体である「上海市工人革命造反総司令部」(工総司)でしたが、その中心人物は、後に江青、張春橋、姚文元と共に四人組を組むことになる王洪文でした。その工総司が紅革会と合流しました。

 

 それに対して、劉、鄧の側に立つ上海市党委は配下の労働者組織――「上海工人赤衛隊」を動かして反撃に出、2日間に及ぶ解放日報争奪戦によって、いったんは赤衛隊が解放日報を奪い返しました。

 

 それに対して、中央文革小組は、紅革会が解放日報を奪い取ったのは「革命事件だ」と主張し、これを党中央決定とすることに成功。そのため市党委は解放日報を再び紅革会に明け渡さざるをえなくなりました。それに対し、体を張って解放日報をいったんは奪還した赤衛隊は黙っておられず、市党委書記兼市長の曹荻秋らをつるし上げ、市党委を2万人以上で包囲し、再び解放日報を力ずくで奪い返そうとしました。

 

 そのことを張春橋の妻、李文静から聞いた王洪文は工総司10数万人を結集して赤衛隊を襲い、その結果、工総司が勝利し、赤衛隊幹部240人以上が拘束されました。

 その結果、上海市党委主流派は指導力を失い、代って文革小組派が奪い取った1967年1月5日付の解放日報は、「上海全人民につぐる書」を掲載。上海市党委に対する宣戦布告を行い、翌6日には、工総司が人民公園で100万人集会を開き、「反革命の罪行を告白せよ」と曹荻秋ら市党委最高幹部をつるし上げ、三角帽子をかぶせて市中を引き回すなどして政治生命を絶ちました。

こうして上海の権力は、全面的に張春橋ら文革急進派の手中に帰したのです。

 

 1967年2月5日には、文革急進派は張春橋を主任、姚文元と王洪水を副主任とする「上海人民公社」の成立を宣言。毛沢東は、これを1871年のパリ・コンミューンに比すべき大勝利だとして喜び、これを「上海市革命委員会」と命名しました。

 

 劉少奇への攻撃も熾烈を極め、67年1月1日早朝、劉の執務室に2人の男が押しかけ、壁に「中国のフルシチョフ、劉少奇を打倒せよ」というビラを張り、その2日後の夜には急進派20人が居宅内にまで突入。劉少奇と妻の王光美を廊下に立たせて「毛沢東語録」を暗唱させるなど、1時間に及ぶつるし上げをしたといいます。

 

 さらに6日夜には、娘の平平が車に足をひかれたという電話があり、劉少奇夫妻が病院に行くと、彼らは王光美を捕らえ、清華大での批判集会に引きずり出しました。事故というのはうそで、それは光美を拉致するための江青の指示によるわなでした。

 

12日には、劉の私邸のそばで大勢が叫び声を上げ、歩哨がそれを制すると、「保皇狗(走資派を擁護する犬)め」と言い、この一言で歩哨がたじろぐと、彼らは外門を突破して庭になだれ込み、口々に劉少奇に自己批判を迫り、「これからは炊事、便所掃除、洗濯など何でも自分でやれ」と毒づいたりしました。

 

 13日の夜には、毛沢東から人民大会堂でみんなに話をするから、その時話をしようとの電話連絡があり、行って見るとそれまでのことはみな筒抜けだったので、劉少奇は毛に、

①路線の誤りの責任は自分が負うので、早く広く幹部を解放し、党が受ける損失を減らして欲しい、

②すべての職を辞し、妻子と共に郷里で畑仕事でもして暮らしたい、という二つの希望を述べました。

 

それに対して、毛は「真剣に学習し、体をいたわるんだ」とだけ言い、劉の願いについては何も触れませんでした。そこで、これで終わったのかと思っていると、その夜も、邸宅に乱入した一団が、劉夫妻を、脚が折れて不安定な机の上に立たせて批判を繰り返しました。

 

 そこで劉は「私はこれまで毛沢東思想に反対したことはない。毛沢東思想に、ときに反したことはあったが、仕事上の食い違いがあっただけだ」と反論しました。

 それでも迫害は止まず、19日には造反派は党中央とつなぐ専用電話回線の撤去をまで要求して来ました。

 

 4月10日には、妻、王光美が清華大に連行され、「反動的ブルジョア分子」だから何の自由も認められないと言われ、無理やりチャイナドレスを着せられ、首にピンポン玉で作ったネックレスをかけるなど、論外の恥ずかしめを受けました。

 

 さらに、「司令部を砲撃せよ」という毛沢東の大字報が配布されてから丸1年になる67年8月5日、北京の天安門広場で大規模な記念集会が開かれた時、これと連動して広場から1キロ余りの中南海で、劉と鄧の糾弾集会が開かれ、劉少奇は監禁されていた執務室から引きずり出され、光美とともに〝批判台〟に立たせられ、2時間にわたって両手をうしろにまっすぐ伸ばして腰をかがめ、頭を下げる「ジェット式縛り上げ」にされ、拷問を受けました。

 

 精神的に追い詰められた劉は毎日2、3時間しか眠れず、炊事係も彼の元を去り、作り置きしたものを分けて食べるしかなく、古くなった食物も混じっているため消化不良で下痢が続きました。

革命戦争時代に痛めた手はつるし上げで殴られてさらに不自由となり、一枚の服を着るのに1、2時間もかかり、足の古傷が悪化したために、30メートルの距離にある食堂に着くのにも50分かかりましたが、劉がよろけても、監視員はだれ一人として手を貸そうとしなかったと言われます。

 

 医者も造反派からの批判を恐れて、「中国のフルシチョフ」とののしり、時には聴診器で殴りつけ、注射器でやたらに体を突き刺し、投薬も十分にせず、ビタミン剤や糖尿病の治療薬も止められたと言います。

 

 こうして、「党からの永久除名」を受けてから1年後の1969年10月17日、北京から河南省開封に移され、ここに軍用機で運ばれた時、劉は裸のまま軍用毛布に包まれ、担架に乗せられ、コンクリートがむき出しの倉庫部屋に監禁され、そのため肺炎がぶり返し、高熱で嘔吐が止まらず、その後、1ヶ月も経たない11月12日6時45分に、71歳の劉は死去。それから2時間も経ってから救急隊がやって来たと言われます。

 

その遺体には「劉衛黄」という偽名が付され、死は一般に公表されず、家族にも知らされませんでした。

妻子が劉の死を知ったのは、それから約7年9ヶ月の後で、その時には、劉の遺言どおり、遺灰は海にまかれたと言います。

何という残酷な仕打ちでしょうか。

 

毛沢東の「集団化、機械化」の徹底というあまりにも非人間的な政策を強行し続けるに忍びず、公共食堂の制度を廃止し、自留地(耕作地の個人への割り当て)、自由市場、個別請負などを認めただけなのに、これを修正主義、資本主義の逆戻りだと見、許すべからざる階級的犯罪だと見て、満足な食事も与えず、ジェット式縛り上げなどの拷問で手も足も機能が止まり、ビタミン剤や持病の糖尿病の薬すらも与えられなかったというのです。

 

そのため、劉少奇は北京から開封に移されてから1ヶ月も経たないうちに死んでしまったのです。これは懲役よりもっとひどい。文字通りの虐殺ではありませんか。それが社会主義だというのですか。地獄そのものではありませんか。

 

これから一体どういう「矛盾の特殊性」が学べるというのでしょう。これがまともな人間のすることか。こんな矛盾のかたまり、いや犯罪のかたまりから、いったい何が学べるというのでしょう。

理論という面では卓越していなくても、実務面で非常にすぐれ、愛も深かった劉少奇を、単なる「物質」としか見なかったというところに、毛沢東のとんでもない思い違いの原点があったと考えるほかありません。

 

矛盾論の批判と克服(14)

e)百万人集会と四旧打破

 

ついで1966年8月18日には、天安門広場で文化大革命祝賀群衆大会が開かれました。

 

開幕は午前7時半。毛沢東は参加者を驚かせる効果を狙って、5時過ぎに早々と車に乗り込み、着いた時はまだ会場整備中でしたが、その時には広場に大学生や中学生(日本の中・高生に相当)を中心とする紅衛兵(紅色造反隊)が全土から続々と集結、その数は10数万人にもなっていました。

毛は天安門楼閣から要人専用エレベーターで地上へ降り、前触れもなく紅衛兵の前に姿を現し、声援を浴びました。彼らは手に手に毛語録を掲げ、大声で万歳を叫びながら毛沢東と握手を求めます。

 

やがて開幕となると、天安門上の毛沢東の周りには林彪や周恩来ら党と国家の最高首脳が居並び、そのうちに劉少奇もいましたが、劉は毛から「学生運動の鎮圧」を厳しく批判され、党内序列も二位から八位に落とされたことを、参加者はこの翌日公表された名簿から知るようになります。

 

開会宣言は「中央文革小組」組長、陳伯達が行い、続いて立った林彪は、紅衛兵を「文革の急先鋒」と位置づけ、旧来の思想、文化、習慣の破壊を呼びかけ、対照的に周恩来は「相互学習、相互支援をもとに革命経験の交流を行い、団結を強化してほしい」とおだやかに説きました。

劉少奇の失脚後、「火薬に火をつける林彪」に対し、「火消し役の周恩来」で、二人がバランスを取っていくようになるわけです。

 

翌19日には、北京市第二中学の紅衛兵によって、北京の街頭のいたるところに、「旧世界に宣戦する」と題した大字報が出され、林彪の呼びかけた「四旧打破」(すべての旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣をたたきつぶす)が高らかに宣言されました。しかし、その「打破」はとんでもない形で発揮されるようになります。

 

例えば、この大字報の宣戦布告がなされた当日、天安門広場南側にある有名な鴨料理店「全聚徳」が中学の紅衛兵に占拠され、「こんな高い料理は労働人民には不要だ」と叫び、人民の血と汗を搾取した象徴だとして、看板が引きずり降ろされ、代わりに「北京烤鴨店」と書かれたペンキ塗りの木製看板が掛けられました。

 

また、書画の名店「栄宝斎」が「資産階級のお嬢ちゃん、お坊ちゃん、奥様、だんな様、反動的学術権威に奉仕する店」だと断罪され、伝統のある看板が「人民美術出版部第二小売部」とすげ変えられます。

 

これらの店舗だけでなく、「旧世界」のイメージを、一新するためだとして、市内各所の施設や街路の看板にも張り紙をして名称が次々と変えられていきました。

 

ジーンズや長い髪、パーマなどもブルジョア的だとされ、人権までがブルジョア思想として切り捨てられます。

さらには、「赤は革命の象徴なのに赤信号で停止するのはおかしい」と言いだして、事故を多発させるという滑稽な事件も起こります。

 

世界的な作家で67歳になる老舎が、なぐられて頭から血を流し、力尽きて倒れると、態度が悪いと深夜まで傷めつけられ、翌朝傷だらけで帰宅し、苦痛のあまり入水自殺するという事件にまで至ったという惨劇もあります。

 

張連和(ちょう・れんわ)の手記によれば、

「8月31日夜、県党委から『四類分子』(地主、富農、反革命分子、悪質分子)とその家族が虐殺されているとの一報が農村工作部に入り、県党委幹部らと合流して現場に急行した。

村内の一軒の民家に『四類分子』が連行され、そこが“処刑場”と化していた。

目に入ってきたのはおびただしい血と散乱する死体だけではなかった。その隣には、鮮血に染まった村民が縄で縛り上げられていた。尋問する側の村民は、何本ものくぎが付いた革製のむちのようなものやこん棒を手にしている。これで『四類分子』を殴りつけ、土地の所有権証書や武器などの隠し場所を自白するように迫っていたのだ。

別の部屋では、両手を縛り上げられた70過ぎの老女に身を寄せる14、5歳の男の子が、鉄棒を持った若い男に尋問されていた。『早く言え。お前らの『変天帳』(財産目録)はどこにあるんだ』

………

『分らない』と子どもが言うと、男は容赦なく子どもの手を鉄棒でたたいた。子どもの左手の薬指と小指がちぎれ、たちまち鮮血が噴き出した。

いくつもの死体を中庭で手押し車に積んでいる男もいた。息絶え絶えながらまだ生きている人もいたが、男はシャベルで一撃を加え、絶命させて外に運び出した。」(『毛沢東秘録上』扶桑社、185-186頁)

 

この手記が事実だとすれば、これはまさに最も悪質な連続殺人事件ではないでしょうか。

実際、同書には、「8月27日から9月1日にかけ、大興県の各地で22世帯の80歳から生後38日の乳飲み子まで325人が犠牲となった」、「文革後に公表された数字によると、北京市だけで8月24日から9月1日までの間、撲殺された人は1529人にのぼる」(同、187頁)とあります。

 

いったい、これでも毛沢東は「乱れるにまかせればよい」と工作隊の派遣や警察の取り締まりを禁じ続けようとするのでしょうか。

実際、国務院公安部長の謝富治(しゃ・ふじ)は、北京市公安局拡大会議で「だれかを殴り殺すことに賛成はしない。だが、人々が悪人を心底憎んでいるならわれわれは制止しきれないから、無理やり止めることはしない」(186頁)と言っています。

 

それでは、相手が「悪人」で、だれかがその悪人を「心底憎んでいる」のなら、「制止きれない」として警察は手を出さないというのでしょうか。もしそうなら、ほとんどの殺人は無罪だということになってしまうでしょう。しかも、ここで「悪人」というのは、毛沢東・林彪の「四類分子」というイデオロギーによってそう定義されているだけのことに過ぎないのです。

 

また、謝富治は「警察は紅衛兵の側に立ち、情報を提供しなければならない」(186頁)とさえ語っています。ここで「情報」というのは、だれが「四類分子」かということについての情報です。

 

すなわち、公安・警察は、殺人にまで発展する「階級闘争」を文闘の範囲にとどめようと規制するどころか、これは殺してもかまわない四類分子だという情報を紅衛兵たちに与えさえしていたというのです。そのため、紅衛兵は警察のさし出すリストに従って、安全が保証された中で何の罪悪感もなく、悪くすれば死に至るお仕置きを平気でしていたわけです。そのために一週間で1500人以上が撲殺されるというような、法治国家では到底考えられない無法の惨劇が生じたわけです。

 

こういう惨劇を前にしても、毛沢東は反省するどころか、10月1日の祝賀大会で、天安門楼閣上に招かれた人民解放軍総医院の李宗仁に、休憩室で茶を勧めながら、こう語ったと言われます。

「大衆が動き出したようだ。………火をつけたのは私で、火はもうしばらく燃やす必要がある。だが、火をつけても災いは容易に消せる………祖国はかつてより強大になったが、十分じゃない。再建設にはあと少なくとも2、30年をかけ、ようやく真に強大になるんだ」(192頁)。

 

毛沢東は、こういう無法な大量虐殺をさらに、2、30年も続けなければならないと言うのです。こういうことを個別的に実践し認識するのが「矛盾の特殊性」の認識だというのであれば、これはまさしく大量殺人の哲学だと言うほかありません。

 

矛盾論の批判と克服(13)

その直後の1966年6月初めに、北京の清華中学の校内に、「われわれは紅色政権を防衛する衛兵である」という大字報が張り出されました。これが「紅衛兵」の産声です。その多くは学業成績も優秀な党幹部の子弟だったと言われます。彼らは毛神格化が強まる中で育ち、全く純真に「毛思想の絶対権威」を打ち立てようとして、階級闘争に打ち込んだわけです。

 

 それに対して、南京では、大学や市の省工作隊の側も学生を動員するようになり、「紅旗戦闘隊」と呼ばれる紅衛兵組織を設立しました。それに対して毛沢東に忠誠を誓う紅衛兵組織の方は「紅色造反隊」と呼ばれ、これはおおむね毛沢東理論で革命的な出身成分だとされる労働者、貧農、下層中農、革命軍人、革命幹部の五つ――「紅五類」に属していました。(それに対して、地主、富農、反革命分子(旧国民党政権の関係者や資本家層)、悪質分子、右派分子(共産党への批判者など)は「黒五類」と呼ばれ、その出身者は「紅色造反隊」に加わることは難しく、「反革命分子」「悪質分子」「右派分子」「牛鬼蛇神」呼ばれ、造反隊によって家荒らし、吊し上げ、暴行などを受ける批判、闘争の対象となりました。)

 

もう一つ、紅色造反隊に加わりたいが出身成分が悪いために思うにまかせない者や、造反隊が味方を増やそうとして革命経験交流に誘うのに応じた中道左派――「八・二八革命経験交流会」(1966年8月28日に発足したことからこう名づけられた)があります。

この「紅色造反隊」「紅旗戦闘隊」「八・二八革命経験交流会」の区分については、董国強編『文革』築地書館、39~44頁。及び50頁の各派概略図参照。

 

 なお、五・一六通知に基づいて新設された「中央文化革命小組」(これが後日、江青や『海瑞罷官』批判を書いた姚文元、張春橋、王洪文ら四人組の根城となる)が、共産党の機関誌、人民日報の主導権を握り、6月1日には、毛沢東の「すべての妖怪変化を一掃せよ」との趣旨を踏まえた社説、2日には聶元梓の大字報、さらに「ブルジョア階級の学者や権威を一掃しよう」など、文革を鼓舞する社説が五日連続で掲載されました。

 

 その結果、学校や街が大混乱となったので、劉少奇はとりあえず党政治局拡大会議で、大字報は学内にのみ張る、デモ行進、大規模な糾弾集会禁止など「八ヶ条指示」を出し、工作隊を組織して鎮静化をはかり、さらに6月9日、鄧小平と共に杭州の毛沢東のもとに飛び、事態の収拾を願い出ました。しかし、毛は単に手を振って「乱れるにまかせたらいい」と言い放つだけでした。

 

 二人が北京に戻ると、情勢は悪化する一方で、学校幹部や教師、右翼と見られた学生が糾弾集会に暴力的に引きずり出され、死亡したりする者まで出ました。そのため、党中央には犠牲者の家族から、「こんなことは封建社会にもなかった」などという憤激の手紙が大量に舞い込みました。

 

 6月18日には、毛沢東の意向で反動として北京大学学長を解任された陸平をはじめ40数人の党幹部、教師、学生が急進的な学生たちに「黒幇」(黒い一味)としてつるし上げられ、「闘鬼台」「斬妖台」と名づけられた台の上で、顔に墨を塗られ、紙を巻いた三角帽子をかぶせられ、首に名前や“罪状”が書かれた看板を下げられるなどの無惨な仕打ちを受け、女性で衣服を引き裂かれる辱めを受けた者もいました。

 

 騒ぎを知った本部の工作隊は、すぐに駆けつけてやめさせ、全校大会を開いて「むやみなつるし上げは革命運動を損なう」と非難し、劉少奇はこの事件の報告書に「処理は正確で、すばやかった。参考とするように」とのコメントをつけて、党中央の名で全国に流しました。

こうして、学校の党委員会に代って「秩序ある」文化大革命を指導しようとした工作組(紅旗戦闘隊)と、自分たちこそ毛沢東の文革を誠実に実行しようとしていると固く信じる紅色造反隊とが、互いに相手を「反革命」と非難し合うようになります。

 

 そこに、農民の出で、祖父が中国共産党の抗日戦争戦士、父母も建国前からの党員である21歳の学生、蒯大富が、清華大学の構内で見ていた一枚の大字報に、「革命の主要問題は奪権である。いま権力は工作組の手中にある。この権力はわれわれを代表しているか。そうでなければ奪権せねばならない」と書きつけ、その日(6月21日)、劉少奇の妻、王光美が工作組の一員として精華大学に来、工作組は歓迎準備までしていたので大騒ぎとなり、2日続けて糾弾大会が開かれました。

 

それに対して、24日、附属中学(日本では高校までも含む)に「革命すなわち造反。毛沢東思想の魂は造反である。」という大字報が張り出されました。

 このことを毛の妻、江青たちの「中央文革小組」が毛沢東に伝え、7月18日に北京に現れた毛沢東は、劉少奇らを呼んで、この工作隊の行為について、

 「学生運動を鎮圧するのはだれか。(袁世凱の)北洋軍閥と(蒋介石の)国民党だけだ」と批判しました。

 

 このことから毛沢東は、秩序ある批判、闘争は好まず、紅色造反隊がしたような徹底的に暴力的な闘争による「奪権」を奨励し、「造反有理(反乱には理がある)」(1939年の抗日戦争中の発言)であって、その点で、毛は劉少奇に反対していたということが分って来るのです。しかし、一体このような死者や自殺者まで出す残忍な批判、闘争が、果たして、闘争者、被害者のいずれにも、幸福をもたらすといえるのでしょうか。

 

 さて、1966年6月8日、72歳となった毛沢東は、厳重な警備の中、乗用車で故郷の韶山の近く、滴水洞に党が一億元を投じて建てた別荘に行き、11日間滞在。7月16日には武漢で長江横断水泳大会に参加。人民日報は、毛が15キロを1時間5分で泳いだと報道。18日には北京に舞い戻り、劉少奇が組織した工作隊の派遣を上記の通り非難。24日から2日間、党政治常務委員会と中央文革小組を招集し、あれほどの惨事があったにもかかわらず、「工作組は運動を阻害し、悪い作用を及ぼす。すべて追放すべきだ」と発言します。

 

 4日後の7月29日には、党中央は「北京市大学高専と中学の文化革命積極分子大会」を開き、鄧小平と周恩来はそれぞれ工作組を派遣した責任を認め、最後に立った劉少奇は、どのように文革を推し進めて行ったらよいのか分らないととまどいを見せました。この大会の終了間際に、毛沢東が突然、会場に現れ、感激の拍手と毛を賛美する勇壮な曲と歓声がホールにこだまし、力の限り万歳が叫ばれました。

 

 8月1日からは、人民大会堂で第八期中央委員会第11回総会(八期11中総会)が開かれ、毛沢東は「司令部を砲撃せよ――私の大字報」という指令分を配らせます。そこには、「一部の指導者の同志は反動的資産階級の立場から文革をたたきつぶし、無産階級の士気をくじいて得意になっている」と書かれており、明らかな劉少奇「司令部」打倒宣言でした。

 

 会場には、聶元梓や江青らの中央文革小組のメンバーも加わっており、劉少奇が政治報告をすると、毛は何度も厳しい調子で詰問しました。

4日にも、毛は政治局常務委拡大会議を招集し、劉少奇が「あの時期、主席は不在で、主な責任は私にあります」と自己批判すると、毛は声を荒げて、「お前は北京で独裁を敷いたのだ」と批判し、葉剣英(中央軍事委副主席)が、「我々は妖怪変化など恐れはしません」と劉をとりなそうとすると、毛は「妖怪変化は一座の中にいる」と言いました。

 

 この毛のやり方から分ることは、毛沢東は整然たる平和的批判運動は好まず、階級敵とみなしたものを暴力で破滅させることしか考えておらず、その暴力に規制を加えることに全く反対であったこと。工作組を用いて批判運動に秩序を与えようとする劉少奇に対して、ひとかけらの愛情も信頼もなく、乱れるにまかせようとしない劉に、憎しみをしか感じなかったということです。

このようなやり方で、果たして万人を幸福に導くことができるのでしょうか。

 

 12日には、毛は党中央機構の改組を提案し、劉少奇の党内序列を一気に二位から八位に落とし、毛を天才としてその言動のすべてをそのまま受け入れる林彪を六位から二位に引き上げました。中央文革小組のメンバーも、その時破格に地位が上げられています。

 

矛盾論の批判と克服(12)

(b)社会主義教育運動と四清運動

 

 さて、毛沢東は経済面では大躍進運動を行ない、これがうまく行かなかったために、その点について批判を加えた軍のトップ、彭德懐を罷免して林彪に切り替えました。他方、軍事面では、ソ連との関係悪化もあって、四方を敵に囲まれた形の中国の防衛のため、1950年代後半以降、「国民皆兵」を旗印に、ほぼすべての政府機関、企業、工場、学校で民兵組織をつくりました。

 この双方を円滑に発展させるために、自らの唯物弁証法の思想に基づく思想教育の徹底化と、それに基づく階級闘争の徹底化が必要だ。こう「存在が意識を規定する」という理論に従って毛沢東は考えました。

 

 これが1960年前半から毛が力を注いだ社会主義教育運動(社教運動)と、それに基づく四清運動(政治・思想・組織・経済の点検)です。社教運動のテキストには、林彪が編集した五十億冊にのぼると言われる『毛沢東語録』が用いられ、四清運動には都市の職場や農村に工作隊が派遣され、地主、富農、資本家のような「悪い階級」の人々に対して批判闘争が行なわれました。具体的には、農村の人民公社では「四清(賃金点数、帳簿、財産、在庫の点検)」、都市部においては「五反(反汚職、反横領、反浪費、反官僚主義、反投機)という目標が立てられ、それが相手の心の内面などいっさい考慮することなく、「闘争」という形で押しつけられたのです。

 

 さて、毛沢東が定めたこのような基本方針に対して、軍事面は、現実がどうであろうと一切意に介さず、ひたすら毛沢東思想が正しいとして盲進する林彪が最高の責任者となったので問題はありませんでしたが、政治・経済面は毛沢東思想を原則として遵法しつつも同時に現実をも重視する国家主席の劉少奇(毛は大躍進政策の不評から彼を政治の中心に立てざるをえませんでした)や党総書記の鄧小平などの実務派が握っています。

 

彼らは現地を見て歩き、例えば劉少奇は、食糧自作が一切認められない公共食堂制に対する農民の不満が非常に強いのを見て、公共食堂がなくなれば社会主義や人民公社がなくなってしまうわけではないと見て、公共食堂の解散を受け容れました。同様に、個人に耕作地を割り当てていく農村自留地や、そこでとれた作物を売買する自由市場、さらには上記のごとく農家が個別に生産を請け負う個別請負なども認めていこうとする方向に実務派は傾いて行ったのです。

 

唯物弁証法を不動の真理だと盲信する毛沢東は、このような実務派の動きによって、社会主義体制が崩壊し、「資本主義」「修正主義」に逆もどりしてしまうのではないかと内心、非常な危機感を抱くようになりました。

 

しかし、毛も彼らを党の中心に立てた以上、一般大衆の評価という大義名分なしには、彼の信条からしても、こうした実務派を解任することができません。そのため青年たちを動かして、下からの「階級闘争」によって、「社会主義」を死守する必要があるとひそかに考えるようになりました。この構想がやがて「プロレタリア文化大革命」となって現実化されて来るのです。

 

(c)「海端罷官」の批判

 

 このような情勢下にあって1965年11月、再び廬山会議を想起させるような事件が発生します。

 

 それは首都北京の副市長で明代史の専門家でもある呉晗が1960年に書いた京劇の脚本――『海瑞罷官』が、後に毛沢東の妻、江青と組んで「四人組」を形成するようになる姚文元(『解放日報』編集委員)によって1965年11月に批判を受けるようになった事件です。

 

 この「海瑞」とは明朝の嘉靖帝時代の高官で、皇帝が民をかえりみないことをいさめたために怒りを買い、罷免、投獄された人物で、姚文元は、呉晗はこの脚本で封建時代の役人を肯定的に描くことによって、「地主階級国家を美化し、革命を不要とする階級調和論を宣伝した」と評し、これはプロレタリア独裁と社会主義に反対する「毒草」だと批判したのです。

 

 毛沢東自身は6年前に上海で、この劇を見た時、皇帝をいさめる場面に感銘を受け、「海瑞は皇帝をののしったが、それは忠心からきたものだ。忠誠にして剛直、……(こういう)海瑞精神を提唱しなければならない」と真実を語ることをためらう党内の風潮を批判していました。

 

 しかし、毛は江青の指摘で、彼女が書かせた姚文元のこの論文を見、皇帝は自分、海瑞は彭徳懐で、彭徳懐の意見をいれずに解任した自分へのあてつけに書かれたとも受け取られる。そこで『海瑞罷官』は反党分子の彭徳懐を擁護するものだと批判することによって実権派に対する政治闘争を仕掛けることができると考えるようになったのです。

 

呉晗はまた鄧拓(北京市党委員会書記)や廖沫沙(北京市党委統一戦線部長)らと組んで、『三家村札記』という大躍進時代の現象を巧妙に風刺するエッセイを執筆しており、北京市長、彭真と考えが一致していましたが、そのため彭真は自分も標的の一人となっていることに気づき、翌1966年2月に彼ら「五人小組」を招集して、「実事求是(事実に基づいて真理を追究する)を堅持し、独断と権勢をもって人を押さえ込んではならない」と、どこまでも問題を学術論争の枠内に押しとどめるべきだとする「二月テーゼ」をまとめました。

 

これに対して1966年5月、毛沢東の影響のもとで、中国共産党中央委員会の通知(五・一六通知)が採択され、二月テーゼは取り消されます。さらに同じ月、彭真は、羅瑞郷、陸定一、楊商昆などの有力政治家らと共に、「反党集団」とされ、職務を解任されてしまいました。また鄧拓は54歳の若さで自殺しています。この五・一六通知ではじめて、「プロレタリア文化大革命」という表現が用いられるようになり、各界の「ブルジョア階級の代表者」が糾弾されるようになるわけです。

 

 この五・一六通知に基づいて、中央文化革命小組が新設され、江青、張春橋、姚文元、さらにその後、王洪文が加わって、毛沢東擁護の尖兵――四人組が活躍するようになります。

 

(d)プロレタリア文化大革命への移行

 

 ひるがえって、毛沢東は共産革命の忠心と見ていたソ連が「修正主義」に移行したことを踏まえて、1964年7月14日の人民日報で、社会主義内部の階級闘争は「百年から数百年かけなければ成功しない」と述べています。これは毛沢東のものの考え方の特徴を如実に示しているように思われます。

 

 毛はその「成功」まで人間の一生を超えるほどの時間がかかると推定しつつ、それほど困難なのは唯物弁証法の人間、社会観に問題があるからだとは考えず、一生、二生をかけてでもその目標を達成しなければならぬと思い込む。2700万人もの餓死者が出てもなおそれが正しい政治・経済政策だと信じ続ける。これほどの無反省の独断の産物が果たして真理だということができるでしょうか。

 

 こんな途方もない暴論を押し通して無理矢理「成功」に導くため、毛沢東は1966年5月、上述の五・一六通知の中で「すべての牛鬼蛇神(妖怪変化)を一掃せよ」との下知を全国に向かって飛ばしました。

 

 これと呼応して直ちに北京大学の学生大食堂に、北京大学と北京市の党委員会幹部を「君」呼ばわりで痛烈に批判する大学報(壁新聞)が5月25日に張り出されました。筆者は北京大学の女性講師で秀才として名の高い聶元梓。中央文革小組の顧問で、毛沢東の妻の江青と同郷の友――康生の妻の勧めで書いたのだと言われます。

 

 そこには、「集会や大字報は最良の大衆的で戦闘的な方法であるのに、君らはそれをさせないよう“指導”することによって、大衆的革命を弾圧している」などと批判されています。これは何よりも「闘争」を重んじた毛沢東の意を踏まえたものだといえましょう。