Archive for 8月 27th, 2013

矛盾論の批判と克服(15)

(f)「劉鄧打倒」の暴走

 

 そうこうするうち、1966年10月16日、北京で開催中の中央工作会議で、中央文革小組の組長、陳伯達は、毛沢東が自らの大字報で「砲撃せよ」と言った司令部とは、ブルジョア反動路線の頭目である劉少奇と鄧小平だとはじめて明言しました。

 

この二人への「反動路線」批判は、直ちに街頭に張られた大字報によって伝えられ、マスメディアを通じて、全世界に向かって報じられるようになります。

林彪もこれに調子を合わせて、「党内には『劉・鄧』のように大衆を圧迫する反革命路線と、大衆に依拠し発動するプロレタリア革命路線という二つの路線の対立がある」と言いました。

 

 これに対して北京農業大学附属中学の二人の学生が、「林彪は毛沢東を持ち上げ過ぎであり、文革の中で起きている問題を理解していない」と公開質問状を提示し、それに呼応して文革発動初期に活動した北京の〝古参紅衛兵〟たちが、「首都紅衛兵連合行動委員会」(連動)を結成。中央文革小組への批判を開始します。

彼らは党や人民解放軍幹部の師弟が多く、親や家族が「ブルジョア反動路線」批判や古参軍幹部批判にさらされていたのです。

 

 こうして互いに相手を「反革命」だとして武力闘争が頻発するようになったのに対し、「中央文革小組をほうり出し、自分たちで革命を起こそう」(北京林業学園学生、李洪山の大字報)と独自路線を提唱するグループも現れ、北京大学などに広く影響を及ぼすようになります。

 

 これに対して多数派紅衛兵は、「死を賭して毛主席、林彪、中央文革小組を守ろう」と呼号して街頭で反対派紅衛兵と武闘。同時に中央文革小組は治安部隊を出動させて、李洪山派の一斉逮捕に踏み切り、それに対して連動は公安当局を襲撃。

これに対して、林彪、江青派の紅衛兵らによる党、政府、軍の指導部に対する容赦ない弾圧が12月に始まり、元北京市長の彭真、陸定一、元総参謀長の羅瑞卿などに対して容赦のない拷問が加えられました。

 

 さて、毛沢東が「実権派」と呼ぶ劉少奇、鄧小平ら党中枢の多数派を打倒するためには、彼らが握っている党中央や地方党委員会の組織をつぶして、新たな革命組織を構築する必要がありました。

 

 その革命の手始めとして、1966年末、まず文革の中心――「上海紅衛兵革命委員会」(紅革会)が上海市党委員会の機関誌――解放日報を武力封鎖しました。上海の造反派の中心は労働者(工人)組織の連合体である「上海市工人革命造反総司令部」(工総司)でしたが、その中心人物は、後に江青、張春橋、姚文元と共に四人組を組むことになる王洪文でした。その工総司が紅革会と合流しました。

 

 それに対して、劉、鄧の側に立つ上海市党委は配下の労働者組織――「上海工人赤衛隊」を動かして反撃に出、2日間に及ぶ解放日報争奪戦によって、いったんは赤衛隊が解放日報を奪い返しました。

 

 それに対して、中央文革小組は、紅革会が解放日報を奪い取ったのは「革命事件だ」と主張し、これを党中央決定とすることに成功。そのため市党委は解放日報を再び紅革会に明け渡さざるをえなくなりました。それに対し、体を張って解放日報をいったんは奪還した赤衛隊は黙っておられず、市党委書記兼市長の曹荻秋らをつるし上げ、市党委を2万人以上で包囲し、再び解放日報を力ずくで奪い返そうとしました。

 

 そのことを張春橋の妻、李文静から聞いた王洪文は工総司10数万人を結集して赤衛隊を襲い、その結果、工総司が勝利し、赤衛隊幹部240人以上が拘束されました。

 その結果、上海市党委主流派は指導力を失い、代って文革小組派が奪い取った1967年1月5日付の解放日報は、「上海全人民につぐる書」を掲載。上海市党委に対する宣戦布告を行い、翌6日には、工総司が人民公園で100万人集会を開き、「反革命の罪行を告白せよ」と曹荻秋ら市党委最高幹部をつるし上げ、三角帽子をかぶせて市中を引き回すなどして政治生命を絶ちました。

こうして上海の権力は、全面的に張春橋ら文革急進派の手中に帰したのです。

 

 1967年2月5日には、文革急進派は張春橋を主任、姚文元と王洪水を副主任とする「上海人民公社」の成立を宣言。毛沢東は、これを1871年のパリ・コンミューンに比すべき大勝利だとして喜び、これを「上海市革命委員会」と命名しました。

 

 劉少奇への攻撃も熾烈を極め、67年1月1日早朝、劉の執務室に2人の男が押しかけ、壁に「中国のフルシチョフ、劉少奇を打倒せよ」というビラを張り、その2日後の夜には急進派20人が居宅内にまで突入。劉少奇と妻の王光美を廊下に立たせて「毛沢東語録」を暗唱させるなど、1時間に及ぶつるし上げをしたといいます。

 

 さらに6日夜には、娘の平平が車に足をひかれたという電話があり、劉少奇夫妻が病院に行くと、彼らは王光美を捕らえ、清華大での批判集会に引きずり出しました。事故というのはうそで、それは光美を拉致するための江青の指示によるわなでした。

 

12日には、劉の私邸のそばで大勢が叫び声を上げ、歩哨がそれを制すると、「保皇狗(走資派を擁護する犬)め」と言い、この一言で歩哨がたじろぐと、彼らは外門を突破して庭になだれ込み、口々に劉少奇に自己批判を迫り、「これからは炊事、便所掃除、洗濯など何でも自分でやれ」と毒づいたりしました。

 

 13日の夜には、毛沢東から人民大会堂でみんなに話をするから、その時話をしようとの電話連絡があり、行って見るとそれまでのことはみな筒抜けだったので、劉少奇は毛に、

①路線の誤りの責任は自分が負うので、早く広く幹部を解放し、党が受ける損失を減らして欲しい、

②すべての職を辞し、妻子と共に郷里で畑仕事でもして暮らしたい、という二つの希望を述べました。

 

それに対して、毛は「真剣に学習し、体をいたわるんだ」とだけ言い、劉の願いについては何も触れませんでした。そこで、これで終わったのかと思っていると、その夜も、邸宅に乱入した一団が、劉夫妻を、脚が折れて不安定な机の上に立たせて批判を繰り返しました。

 

 そこで劉は「私はこれまで毛沢東思想に反対したことはない。毛沢東思想に、ときに反したことはあったが、仕事上の食い違いがあっただけだ」と反論しました。

 それでも迫害は止まず、19日には造反派は党中央とつなぐ専用電話回線の撤去をまで要求して来ました。

 

 4月10日には、妻、王光美が清華大に連行され、「反動的ブルジョア分子」だから何の自由も認められないと言われ、無理やりチャイナドレスを着せられ、首にピンポン玉で作ったネックレスをかけるなど、論外の恥ずかしめを受けました。

 

 さらに、「司令部を砲撃せよ」という毛沢東の大字報が配布されてから丸1年になる67年8月5日、北京の天安門広場で大規模な記念集会が開かれた時、これと連動して広場から1キロ余りの中南海で、劉と鄧の糾弾集会が開かれ、劉少奇は監禁されていた執務室から引きずり出され、光美とともに〝批判台〟に立たせられ、2時間にわたって両手をうしろにまっすぐ伸ばして腰をかがめ、頭を下げる「ジェット式縛り上げ」にされ、拷問を受けました。

 

 精神的に追い詰められた劉は毎日2、3時間しか眠れず、炊事係も彼の元を去り、作り置きしたものを分けて食べるしかなく、古くなった食物も混じっているため消化不良で下痢が続きました。

革命戦争時代に痛めた手はつるし上げで殴られてさらに不自由となり、一枚の服を着るのに1、2時間もかかり、足の古傷が悪化したために、30メートルの距離にある食堂に着くのにも50分かかりましたが、劉がよろけても、監視員はだれ一人として手を貸そうとしなかったと言われます。

 

 医者も造反派からの批判を恐れて、「中国のフルシチョフ」とののしり、時には聴診器で殴りつけ、注射器でやたらに体を突き刺し、投薬も十分にせず、ビタミン剤や糖尿病の治療薬も止められたと言います。

 

 こうして、「党からの永久除名」を受けてから1年後の1969年10月17日、北京から河南省開封に移され、ここに軍用機で運ばれた時、劉は裸のまま軍用毛布に包まれ、担架に乗せられ、コンクリートがむき出しの倉庫部屋に監禁され、そのため肺炎がぶり返し、高熱で嘔吐が止まらず、その後、1ヶ月も経たない11月12日6時45分に、71歳の劉は死去。それから2時間も経ってから救急隊がやって来たと言われます。

 

その遺体には「劉衛黄」という偽名が付され、死は一般に公表されず、家族にも知らされませんでした。

妻子が劉の死を知ったのは、それから約7年9ヶ月の後で、その時には、劉の遺言どおり、遺灰は海にまかれたと言います。

何という残酷な仕打ちでしょうか。

 

毛沢東の「集団化、機械化」の徹底というあまりにも非人間的な政策を強行し続けるに忍びず、公共食堂の制度を廃止し、自留地(耕作地の個人への割り当て)、自由市場、個別請負などを認めただけなのに、これを修正主義、資本主義の逆戻りだと見、許すべからざる階級的犯罪だと見て、満足な食事も与えず、ジェット式縛り上げなどの拷問で手も足も機能が止まり、ビタミン剤や持病の糖尿病の薬すらも与えられなかったというのです。

 

そのため、劉少奇は北京から開封に移されてから1ヶ月も経たないうちに死んでしまったのです。これは懲役よりもっとひどい。文字通りの虐殺ではありませんか。それが社会主義だというのですか。地獄そのものではありませんか。

 

これから一体どういう「矛盾の特殊性」が学べるというのでしょう。これがまともな人間のすることか。こんな矛盾のかたまり、いや犯罪のかたまりから、いったい何が学べるというのでしょう。

理論という面では卓越していなくても、実務面で非常にすぐれ、愛も深かった劉少奇を、単なる「物質」としか見なかったというところに、毛沢東のとんでもない思い違いの原点があったと考えるほかありません。