Archive for 9月, 2013

矛盾論の批判と克服(19)

五、毛沢東と鄧小平の思想の比較

 

毛沢東は確かに思想家であっただけでなく、戦争の指導にはたけており、その手腕により第二次世界大戦後、わずか4年余りで大陸から蒋介石を追い出して中華人民共和国を発足させるという大仕事をなし遂げました。

しかし、1958年から着手した大躍進と文革は、全く観念的、独善的なものであり、数千万人にも及ぶ人民を餓死、殺戮に導き、このままではどうにもならない惨状であったのを、葉剣英の手引きで華国鋒政権の陣頭指揮に立つようになった鄧小平が、限界はありましたが、みごとに立て直しました。

 

この二人の思想、手腕にはどのような違いがあったでしょうか。これは「矛盾論」の評価ともかかわりがありますので、その要点を調べてみることにしましょう。

 

毛沢東はどこまでも理詰めで、『矛盾の特殊性』にも述べられているように、「プロレタリアートとブルジョアジーの矛盾は、社会主義革命の方法によって解決される」(『世界の名著78 孫文 毛沢東』中央バックス、379頁)。「社会主義社会における労働者階級と農民階級の矛盾は、農業の集団化と機械化の方法によって解決される」(同)と割り切り、農民の家族的心情的関係を全く無視しています。

 

そして、「高度の生産性」と「生産手段の全人民的所有」を実現することによって、全農民を平等に富ませることができるとして、上述のごとく、何と5000戸もの農民をひとくくりにして労働させ、その生産物を全部、ひとかけらも農民の自由にさせず、人民公社に収めさせました。

また、食べるのも人民公社の公共食堂で、無料で提供されるものを食べよと、まるで終身懲役か家畜のように人々を扱いながらも、自分たちが、農民をどんなにひどく遇しているかということにすら気づかないという状態でした。

 

また、「百万人集会と四旧打破」のところで書いたように、天安門広場・百万人集会で、毛沢東や林彪から、近衛兵に対して、四旧打破(すべての旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣の破棄)や黒五類(地主、富農、反革命分子、悪質分子、右派分子)との階級闘争の鼓舞がなされ、北京で1000人を超える集団虐殺事件が起こったりしましたが、毛沢東は「火をつけたのは私で、火はもうしばらく燃やす必要がある」とこれも革命の一段階に過ぎないと平然としていたと言われます。

 

これに対して、鄧小平は、まず第一に、絶対に政治運動や政治闘争を煽ってはならず、混乱は断固として未然に最小限に抑え、安定の局面を確保すべきだとし、下からの民主化の要求に対しては、社会主義、共産党の指導、プロレタリア独裁、マルクス・レーニン主義と毛沢東思想という「四つの基本原則の堅持」ということで押し切るとしました。

 

文革の経験で立証されているように、動乱があれば前進はありえず、後退あるのみで、秩序があってこそ前進できるのだというのです。

しかし、争いは避けるが社会主義路線は断固として貫き、民主化(自由選挙)の要求には応じないというのです。

 

この基本方針のために、その後、悲惨な第二次天安門事件(学生たちの民主化要求を「愛国的民主運動」と評価した党の総書記、趙紫陽を、その任につけた鄧小平が追放し、学生たちのハンスト運動を武力で弾圧。その時、軍の無差別発砲により、3万人が殺害されたという報道もある。)が起こりました(天児慧『巨龍の胎動 毛沢東vs鄧小平』講談社、258~262頁、288~289頁参照)。

 

第二には、中国の経済的な現実を直視し、「できる所から、できる事からしっかりやる」。大衆の願望から出発するという事も重要。当地の条件に目を向けず、一つの方法だけを宣伝して、そのとおりにやれと要求してはならないと強調しました。

 

これは、かつて毛沢東が、「人民公社はすばらしい」「農業は大寨に、工業は大慶に学ぼう」などと、大衆の願望や各地の実情を無視して、画一主義的に自分の考えを押しつけたやり方を事実上否定したものであると言います。

 

さらに、この発想をさらに前向きに展開して、豊かになれる条件を持つ一部の人や地域が、他に先んじて豊かになろう(先豊起来)と勧めるもので、これを「先富論」と呼びます。

この勧めによって、もともと潜在的に経済発展を持っていた、あるいはそこにいくつかの条件を与えれば短期間で発展できる可能性のある地域、あるいは経済的な才覚や技術を持っていた個人などが、あからさまに積極的に経済活動を始めることが可能となりました。

 

この主張は、社会主義というものが、もともと一部の階級に富が集中することに対する批判から生まれたもので、平等主義の重視を特徴とし、特に毛沢東の主張にはその傾向が強くあります。

この批判に対して、鄧小平は、これは個人のやる気を引き出すための方策で、先に豊かになった地域が後進地域を支援、引っ張り、「共同富裕」を達成するための手段である。社会主義だけが両極分化を避け、共同富裕を実現できるのだと弁明しています(伊藤正著『鄧小平秘録下』産経新聞出版、199頁)。

 

第三に、鄧小平は、毛沢東の路線が内向きであったのに対し、当初から極めて積極的な対外開放路線を主張し、西側の先進技術、資金を大量に導入しなければならないと強調しました。

1979年の全人代会議では、香港や台湾に近く、海外華人の太いネットワークを持っている広東省と福建省に対外経済活動の大幅な自主権を与え、さらに広東の深圳、珠海を輸出特別区に指定。

さらに、1980年には、広東の汕頭、福建の廈門を合わせ、4つの経済特別区を設置し、対外経済交流、技術・資金導入を積極的に進めるため、関連法案の制定、各種インフラ整備など対外開放路線の環境整備を積極的に開始したと言われます。

 

鄧小平のこういうきめの細かい多方面にわたる心遣いがあったので、共産党一党独裁のもとにありながら、中国の全土の経済発展がたくましく進んでいるのでしょう。

 

矛盾論の批判と克服(18)

3.遊撃戦争の主導性、弾力性、計画性

 

遊撃戦争は攪乱、牽制、破壊、大衆工作など多くの活動にあたっては、兵力分散を原則とする。しかし、敵を消滅する任務につく時は「大きい力を集中して、敵の小さい部分を攻撃する」(『世界の名著78 孫文 毛沢東』中央バックス、414頁)ことが原則となると毛沢東は言います。

 

こういう速決戦を何回も展開して勝利を得ることによってのみ、味方の抗戦能力を強化する時間をかせぐと同時に、国際情勢の変化と敵の内部崩壊を促進するという戦略的持久の目的を達成して、戦略的反抗に転じ、侵略者を中国から駆逐することができると言うわけです。

 

この時、必要となるのが、まず遊撃戦争の主動性だといいます。主動性、主動権というのは「軍隊の行動の自由」で、受身ではなく攻めの立場に立つことで、日本帝国主義には、小さい国から派兵しているために、兵力の不足と外国での作戦という基本的弱点がある。それに加えて、指揮上の誤りという三つの弱点を衝くことで中国の遊撃隊は主動権を握ることができるというのです。

 

遊撃隊の弱くて小さいという点ですら、かえって敵の後方で神出鬼没に活動するということで生かせる。こうした自由は巨大な正規軍にはなく、遊撃隊であればこその持ち味だというわけです。

主導権というものは、敵と味方の双方についての正確な状況判断とそれに基づく正しい軍事的・政治的処理から生まれる。受身の立場からの脱出は「移動する」ことで、移動がたやすいのが遊撃隊の特徴だと毛沢東は言うのです。

 

次に必要な弾力性とは主動性の具体的な現れを言い、弾力的に兵力を使用することが、正規戦争以上に遊撃戦争には必要とされる。遊撃戦争の特徴に基づいて、任務、敵情、地形、住民などの条件に応じて兵力の使用を、分散的用兵、集中的用兵、兵力の転進というように弾力的に変えるべきだといいます。

遊撃隊を使用するにあたっては、指導者は、漁師が網をうつように、ひろげることも、たぐりよせることもできなければならない。たぐりよせるときは手綱をしっかりとつかんでいなければならないように、部隊を使用する時は、通信と連絡を保つと共に、かなりの主力を手中にとどめておかなければならない。

 

また、漁をする時、常に場所を変えなければならないように、兵力を分散、集中、移動という三つの方法に従って弾力的に使用の仕方を変える必要がある。(毛沢東はここでどういう時にどんな具合に分散、集中、移動(転進)させるかということについてきめ細かくコメントしています。)

 

最後に、計画性について。行動を起こす時には、あらかじめ、できるだけ厳密な計画を立てておかなければならないとして、何をどのように計画しなければならないかということについて、これまた細かくコメントしています。

 

そこにおいて、防御戦の中で侵攻戦を、持久戦の中で速決戦を、内戦作戦(包囲、挟撃される位置にあっての作戦)の中で外線作戦(包囲、挟撃の陣形をととのえるときの作戦)を実行するというように、常に正反対のものを前提として作戦が組まれなければならないことが強調されています。

 

4.戦争に勝つ秘策と経済を発展させる論理との根本的差異

 

これらの記述を見ると、毛沢東がどういうことを「矛盾」と考えていたかということが分かります。

 

毛沢東がいう通り、確かに、戦争とは「できるだけ自己の力を保存し、敵の力を消滅するかということで、敵もやはり自己(こちら側から見れば敵)の力を保存し、敵(こちら側から見れば自己)の力を消滅」させようとしている。

したがって、両者の「目的」は絶対に相容れない。したがって、戦争の場合には、確かに味方と敵の行動は常に「矛盾」しており、「矛盾の普遍性」が見られると言ってよいでしょう。

唯物弁証法は、すべての現象をこの戦争と同一視する一面的な世界観だといえます。

 

毛沢東のこの「抗日遊撃戦争」の理論は、実に精密、的確であり、その点からして、こと戦争に関する限り、毛は天才的な手腕を持っていたということが分かります。

実際、毛沢東は第二次世界大戦からわずか四年の間に共産党の遊撃隊をみごとに使いこなして、蒋介石の軍隊を中国の大陸から台湾に追い出し、1949年10月1日には中華人民共和国の建国を宣言するというめざましい成果を収めました。

 

しかし、経済面の改革――大躍進運動からプロレタリア文化大革命に至る一連の過程は大失敗だったと言わざるをえず、増産どころか2700万人(研究者によっては4000万人という者もいる)にも及ぶ大量の餓死者や栄養失調による病死者を出しました。

これは、「矛盾の普遍性」を前提として階級闘争を行うという唯物弁証法の捉え方が根本から誤っていたことを証明するものだと言わなければなりません。

 

経済面の改革は、毛沢東のように、「矛盾」を前提とするのではなく、逆に「矛盾の全廃」、すなわち、だれもが幸福を満喫できるような共通目的を立て、その目的に向かって、闘争ではなく全員が協力し合うように励ますべきだったのです。

すなわち、「統一思想」が主張するように、全国民が真の愛のもとに、互いに人のために尽くし合うという、神の人間創造の目的に向かって経済活動を推し進めていくようにすれば、全国民の目的が一致するので、矛盾はなくなるはずなのです。

 

このように、戦争の場合には、自分の目的と敵の目的とが対立するので、「矛盾の普遍性」ということがいえますが、経済活動の場合はそうではない。

この道理が、毛沢東のようにすべてを理屈だけで割り切ろうとはせず、現実に即して柔軟に対処しようとする鄧小平には分かっていたようです。この点について、現在の中華人民共和国を築き上げたこの二人の捉え方にはどういう違いがあったのか。

その点を次に追求して見ることにしましょう。

 

矛盾論の批判と克服(17)

(i)毛沢東の死と四人組の逮捕

 

その後間もなく、1976年9月9日に毛沢東が亡くなり、林彪の死後、林に代わって国防相となった老幹部の一人、葉剣英に、10月4日、「事態は切迫しています。一刻も早くご下命を」という電話が入ります。何事かと聞き返すと、それは海軍司令官の一人からで、「四人組」の逮捕を求めるものでした。

 

彼は、四人組から追い落とし工作の標的にされており、当時、79歳であった葉剣英自身も、かつて急進派から失脚させられる苦痛を味わっていました。そこで、葉は四人組の逮捕を「国慶節(10月1日)から10日間」と定め、直ちに華国鋒を訪れ、煮え切らない華に、「直ちに四害(四人組)を取り除こう」と耳打ちし、「決行日は6日ないし7日としよう」と提案。

 

その足で党や政府の重要機関が密集している中南海の執務室でまかせていた汪東興から最終的な準備状況を聞き、決行日を翌々日の「6日午後8時」と定めました。

 

まず、午後8時30分に行動組3人が、江青の自宅に入って「華国鋒総理があなたを隔離審査をする党中央決定を指示した」と言って逮捕。残りの張春橋、王洪水、姚文元は外界と隔絶された懐仁堂の広間に集まって会議をするという情報をつかんだので、そこに午後7時55分、華国鋒と葉剣英自身が広間に座り、汪東興ら行動組が屏風の陰に隠れて待ち受け、まず入って来た張春橋を無抵抗のまま逮捕。

 

次に、到着した王洪水は行動組の制止を振り切って約5メートル先の葉剣英に飛びかかったが、汪東興が小銃を構え、行動組の一人が王を組み伏せて手錠をかけ、姚文元は到着が遅れ、8時15分に「逮捕は自宅でするか」と汪東興が考えていた時、専用車で乗りつけたので、室外で逮捕しました。こうしてわずか約1時間半で四人組はすべて捕らえられたわけです(産経新聞取材班『毛沢東秘録上』産経新聞ニュースサービス、14-34頁)。

 

他方、汪東興が中央警衛団の張耀祠団長らに逮捕の作戦を伝えると共に、王洪水、張春橋、姚文元に6日午後8時から中南海で政治局常務委員会を開くから出席するようにと通知を出し、午後7時過ぎ、華国鋒、葉剣英がソファに座り、汪が屏風の陰に身を潜めていたという記述もあります(伊藤正著『鄧小平秘録下』産経新聞出版、38-41頁)。

 

通知を出し、それに従って出席したところを捕らえたという方が自然であり、この方が事実かもしれません。

 

その後、午後10時半(あるいは11時)から四人組逮捕についての報告と、華国鋒総理を党中央主席、党中央軍事委主席とし、毛沢東と同様、政治・党・軍事の最高指導者に決定したとあります。

 

ただし華国鋒は清廉潔白な人格の持ち主ではあっても、毛沢東時代の政策、路線を根本から見直し、新しい繁栄の時代を創始する見識と実力を備えているのは鄧小平だけだと葉剣英はにらみ、四人組逮捕後の激務が一段落したところで、息子に車で鄧小平を迎えさせ、五泉山の別邸にまで連れ出しました。

 

では、鄧小平の生き方は毛沢東とどこが違っていたか。それは毛沢東の矛盾観が実際に役立ったと思われる「抗日遊撃戦争の戦略問題」を検討した後で、比較してみることにしましょう。

 

 

四、矛盾の成立根拠の解明

 

さて、毛沢東は「矛盾論」を書いた1937年8月のすぐ後、1938年5月に「抗日遊撃戦争の戦略問題」(『世界の名著78 孫文 毛沢東』中央バックス407-445頁)を書いています。

 

この後著においては、毛沢東の矛盾観が弊害だらけの空理空論ではなく、非常に現実的な戦略理論となっています。

そこで、この「戦略問題」の理論構成を見ることによって、「矛盾」という捉え方が、どういう場合には現実で役に立ち、どういう場合には全く非現実的でその信奉者を苦しめることにしかならないかを検討してみることにしましょう。

 

1.戦略と戦術

 

毛沢東はまず「抗日戦争においては、正規戦争が主要であり、遊撃戦争は補助的である。………とすれば、遊撃戦争では、戦術が問題になるだけなのに、なぜ戦略問題を提起するのであろうか」『世界の名著78 孫文 毛沢東』中央バックス、409頁)と問題を投げかけています。

 

広辞苑を見ると、戦術とは「一個の戦闘における戦闘力の使用法、一般に戦略に従属」。転じて「ある目的を達成するための方法」とあります。それに対して、戦略とは「各種の戦闘を総合し、戦争を全局的に運用する方法」だと説明しています。

 

すなわち、ここで述べられているのは、戦術とは「一個の戦闘」に対応するものであるのに対し、戦略とは「各種の戦闘を総合」するものである。遊撃戦争とは「一個の戦闘」を意味するものなのに、どうして「いくつもの戦闘」の総合について考えなければならないのかと毛沢東は問いを投げかけているわけです。

 

ここでまず注意すべきことは、広辞苑の戦術の説明に「ある目的を達成するための方法」と、ここに「目的」という言葉が使われているということです。矛盾という概念はこの「目的」ということを度外視しては成り立たないのではないでしょうか。すなわち、ある目的を達成しようとしているのに、その目的の達成が難しくなるような条件が生じて来る。あるいは、その目的とは別の目的を達成しようとする動きが生じて来る。こういう場合にだけ「矛盾」という問題が発生して来るのではないでしょうか。

 

毛沢東は、この論文が書かれた1938年5月という時点において、中国は「大きくて弱い国」、それに対して、それを攻める日本は「小さくて強い国」だと言っています。敵(日本)は非常に広い地域を占領しているが、その兵は小さい国から来ているので兵力が不足している。そのため中国の遊撃軍は「内線」(敵に囲まれるような陣形)において正規軍の作戦に呼応するのではなく、「外線」(敵を囲むような陣形)において単独で作戦をおこなうようになっている。そのため正規軍とどのように呼応して動くかという戦略的な観点が必要になるのだというわけです。

 

2.戦争の基本原則――自己を保存し、敵を消滅させること

 

次に毛沢東は、すべての軍事行動の基本原則は、できるだけ自己の力を保存し、敵の力を消滅させることだと言い、この軍事行動の基本原則が、日本帝国主義を駆逐し、独力、自由、幸福の新中国を建設するという政治原則と結び着いていると言っています。

 

ここで、「矛盾論」では一度も出て来なかった「幸福」という概念が登場して来ます。

 

さて、戦争では勇敢に「犠牲となれ」といいます。この「犠牲となれ」というは、一見、「自己を保存する」ということと矛盾するようであるが、敵を消滅するためにも、自己を保存するためにも、犠牲が必要となるので、何ら矛盾しない。しかし、このように、「犠牲」ということは「自己保存」と「敵の消滅」のために必要となるものなので、その点、取り違いをしないようにと毛沢東は警告します。

 

矛盾論の批判と克服(16)

(g)林彪と周恩来の死

 

その後、毛沢東は林彪の権力が著しく強大化されるのを見て警戒するようになり、葉剣英など非林彪系の軍人6人を政治局入りさせたのを見て、林彪は自分も劉少奇の二の舞になると恐れたのか、妻の葉群、長男の林立果や配下の諸将と共に、毛沢東を暗殺して自力の権力を万全のものにしようとして失敗し、1971年9月13日、一味と共に飛行機で逃亡しようとして墜落死します。

 

その後、中国共産党の草創期から50年以上にわたる毛の同志、周恩来が党と国家の日常工作を一手に担うようになり、毛沢東は「批林整風」(林彪を批判し、思想を整とんする)、あるいは「批林批孔」(極右の反動として孔子を取り上げる)の運動を起こすようになります。江青は「批孔」の名を借りて周恩来の追い落としをはかるようになったと言われます。

 

その後、1976年1月8日に周恩来が死去。四人組の頭目――張春橋は周の跡を継いで総理代行となることを期待していましたが、毛沢東は甥の毛遠新に張をどう思うかと問い、遠新が「陰陽怪奇」(偏屈でえたいが知れない)と答え、「では華国鋒はどうか」と聞くと「忠厚老実」(忠実で情に厚く実直)と答えるのを聞いて、「いや、重厚少文(まじめで重みがあるが味がない)だ」と言いながら、周恩来の跡をまかせるには無難だと思い、華国鋒を国務員総理代行とし、実力が必要な外交は、1969年から下放され、周恩来の懸命の尽力で1973年から復帰した鄧小平にまかせることにしたと言われます。(さらに、影響力の強い葉剣英ら老幹部とうまくやっていけるのも華国鋒だと見たようです。)

 

さて、周恩来は毛沢東の観念的、非現実的な政治・経済の運営に対して、批判は加えずに、愛に満ちた心配りでその欠陥に終生、全力で対処し続けました。

「中国人にとって、毛沢東は厳父であり、周恩来は慈母だった」と言われます。それだけに、周恩来の死は民衆にとって大きなショックでした。そのあとを受け継いだのが華国鋒や鄧小平でしたが、この周恩来の思いやり路線は、江青ら四人組が権力を掌握する妨げとなります。

 

そのため四人組は国営新華社通信に周の追悼報道を控えるように指示。多くの職場、大学では追悼活動をすることさえ禁止しました。四人組のこの自己本位の冷酷な指示に民衆はショックを受け、四人組への怒りとなって来ます。

 

1月11日の午後、周の遺体を荼毘に付すために北京病院から革命公墓に運ばれた時に、約6キロの沿道は100万人以上の市民で埋まり、15日に人民大会堂で行われた追悼大会で弔辞を読むのを、張春橋は最適任の鄧小平ではなく、葉剣英が担当するようにと提案。

葉剣英は固辞し、政治局の支持で鄧が読みました。それを最後に鄧は公開の場から姿を消します。

 

追悼大会後、鄧への批判が一段と高まり、鄧は自己批判の文書を政治局に提出しましたが、自分の立場も主張、毛沢東との面会を要求しました。鄧は責任ある仕事をするにはふさわしくないと毛沢東に手紙で職務解除を申し出ましたが、それに対して毛沢東は首相の座を張春橋ではなく、前に述べた通り、華国鋒に引き渡しました。

 

毛沢東の最晩年の望みは、「安定団結」(指導部が文革を継続しつつ団結をはかる)ということであり、その望みを鄧小平に託しましたが、鄧は現実主義者で文革路線を盲進することはせず、批判されると辞意を表明しました。

それに対して毛沢東は、「うまく導き、対抗する方向にしないこと。彼の仕事は減らしても辞めさせてはならず、棍棒でたたきのめしてはならない」と毛遠新に指示していたと言われます。

 

(h)第一次天安門事件

 

それに対して四人組は、周恩来→鄧小平の路線を破壊しようとして、3月5日、上海の『文匯報』に載せた記事のうち、周恩来の言葉が削除されたということが伝わると、全国から抗議が殺到。各メディアの「走資派批判」の記事に対しても抗議があいつぎ、3月下旬には南京で「周総理を守れ」「張春橋打倒」と叫ぶ街頭デモが発生。

日本のお盆に相当する清明節の4月5日が近づくと、1月には許されなかった周恩来追悼活動が始まり、天安門広場は連日、数10万人の市民で埋まります。かくして4月5日夜9時半過ぎ、第一次天安門事件が起こります。

 

そのきっかけは、清明節に向けて、市民たちが広場の人民英雄記念碑に捧げた3000個に及ぶ花輪や大小の壁新聞が、すべて当局側に撤去されたことでした。民衆はその撤去に怒り、当局の車両を焼き、警備員に暴行を加えるなどし、当局側はこれを「反革命事件」として鎮圧に出たのです。

 

その時の現場責任者―呉徳の口述記録によると、市当局は4月3日に各界代表と話し合い、6日に市民側が花輪などを自主撤去することで合意していました。ところが、その会議中に江青を罵倒する演説をした者がいるとのメモが入り、江青が激怒して「こんな反革命演説を放置しているのか」とののしり、即刻、花輪などを撤去することを要求。清場(一斉撤去)が始まりました。

 

さらに、5日午後の政治局会議で、江青の息子であるため四人組の手先に変わった毛遠新が、「事件の性質は反革命に変わった」との毛沢東の言葉を伝え、こうして鎮圧の方針が決まったと言うのです。

 

この会議には鄧小平も出席していましたが、全く動ぜず、発言もしませんでした。当時の壁新聞に、鄧小平を支持したものもほぼ皆無でしたし、現場の責任者、呉徳が実力行使と定めた午後8時の前に演説をしましたが、その中にも鄧小平の名はありませんでした(ただし、新華社はそこに鄧小平のことが言及されていると報じた)。

 

しかし、四人組は周恩来=近代化=鄧小平とみなし、この機に鄧を完全に葬り、権力の主導権を握ろうとしたのだと言います。

4月7日の政治局会議は、鄧をすべての公職から解任する決議をし、こうして鄧は生涯三度目の失脚をします。しかし、劉少奇の場合とは異なり、毛沢東は鄧の党籍は保留し、除名はさせませんでした。

 

この四・七決議により、民衆は慈母の周恩来=鄧小平であることをはっきりと認識し、自分たちの行動によって失脚した鄧に同情と共感を持ち、四人組の鄧小平批判が強まると共に、鄧は心の英雄になったと言われます。

 

この第一次天安門事件で、毛沢東の文革路線は事実上終わり、鄧小平は国民の支持を一身に集めます。こうして、鄧小平路線が事実上、力強く一歩を進めるようになるのです。