矛盾論の批判と克服(19)
五、毛沢東と鄧小平の思想の比較
毛沢東は確かに思想家であっただけでなく、戦争の指導にはたけており、その手腕により第二次世界大戦後、わずか4年余りで大陸から蒋介石を追い出して中華人民共和国を発足させるという大仕事をなし遂げました。
しかし、1958年から着手した大躍進と文革は、全く観念的、独善的なものであり、数千万人にも及ぶ人民を餓死、殺戮に導き、このままではどうにもならない惨状であったのを、葉剣英の手引きで華国鋒政権の陣頭指揮に立つようになった鄧小平が、限界はありましたが、みごとに立て直しました。
この二人の思想、手腕にはどのような違いがあったでしょうか。これは「矛盾論」の評価ともかかわりがありますので、その要点を調べてみることにしましょう。
毛沢東はどこまでも理詰めで、『矛盾の特殊性』にも述べられているように、「プロレタリアートとブルジョアジーの矛盾は、社会主義革命の方法によって解決される」(『世界の名著78 孫文 毛沢東』中央バックス、379頁)。「社会主義社会における労働者階級と農民階級の矛盾は、農業の集団化と機械化の方法によって解決される」(同)と割り切り、農民の家族的心情的関係を全く無視しています。
そして、「高度の生産性」と「生産手段の全人民的所有」を実現することによって、全農民を平等に富ませることができるとして、上述のごとく、何と5000戸もの農民をひとくくりにして労働させ、その生産物を全部、ひとかけらも農民の自由にさせず、人民公社に収めさせました。
また、食べるのも人民公社の公共食堂で、無料で提供されるものを食べよと、まるで終身懲役か家畜のように人々を扱いながらも、自分たちが、農民をどんなにひどく遇しているかということにすら気づかないという状態でした。
また、「百万人集会と四旧打破」のところで書いたように、天安門広場・百万人集会で、毛沢東や林彪から、近衛兵に対して、四旧打破(すべての旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣の破棄)や黒五類(地主、富農、反革命分子、悪質分子、右派分子)との階級闘争の鼓舞がなされ、北京で1000人を超える集団虐殺事件が起こったりしましたが、毛沢東は「火をつけたのは私で、火はもうしばらく燃やす必要がある」とこれも革命の一段階に過ぎないと平然としていたと言われます。
これに対して、鄧小平は、まず第一に、絶対に政治運動や政治闘争を煽ってはならず、混乱は断固として未然に最小限に抑え、安定の局面を確保すべきだとし、下からの民主化の要求に対しては、社会主義、共産党の指導、プロレタリア独裁、マルクス・レーニン主義と毛沢東思想という「四つの基本原則の堅持」ということで押し切るとしました。
文革の経験で立証されているように、動乱があれば前進はありえず、後退あるのみで、秩序があってこそ前進できるのだというのです。
しかし、争いは避けるが社会主義路線は断固として貫き、民主化(自由選挙)の要求には応じないというのです。
この基本方針のために、その後、悲惨な第二次天安門事件(学生たちの民主化要求を「愛国的民主運動」と評価した党の総書記、趙紫陽を、その任につけた鄧小平が追放し、学生たちのハンスト運動を武力で弾圧。その時、軍の無差別発砲により、3万人が殺害されたという報道もある。)が起こりました(天児慧『巨龍の胎動 毛沢東vs鄧小平』講談社、258~262頁、288~289頁参照)。
第二には、中国の経済的な現実を直視し、「できる所から、できる事からしっかりやる」。大衆の願望から出発するという事も重要。当地の条件に目を向けず、一つの方法だけを宣伝して、そのとおりにやれと要求してはならないと強調しました。
これは、かつて毛沢東が、「人民公社はすばらしい」「農業は大寨に、工業は大慶に学ぼう」などと、大衆の願望や各地の実情を無視して、画一主義的に自分の考えを押しつけたやり方を事実上否定したものであると言います。
さらに、この発想をさらに前向きに展開して、豊かになれる条件を持つ一部の人や地域が、他に先んじて豊かになろう(先豊起来)と勧めるもので、これを「先富論」と呼びます。
この勧めによって、もともと潜在的に経済発展を持っていた、あるいはそこにいくつかの条件を与えれば短期間で発展できる可能性のある地域、あるいは経済的な才覚や技術を持っていた個人などが、あからさまに積極的に経済活動を始めることが可能となりました。
この主張は、社会主義というものが、もともと一部の階級に富が集中することに対する批判から生まれたもので、平等主義の重視を特徴とし、特に毛沢東の主張にはその傾向が強くあります。
この批判に対して、鄧小平は、これは個人のやる気を引き出すための方策で、先に豊かになった地域が後進地域を支援、引っ張り、「共同富裕」を達成するための手段である。社会主義だけが両極分化を避け、共同富裕を実現できるのだと弁明しています(伊藤正著『鄧小平秘録下』産経新聞出版、199頁)。
第三に、鄧小平は、毛沢東の路線が内向きであったのに対し、当初から極めて積極的な対外開放路線を主張し、西側の先進技術、資金を大量に導入しなければならないと強調しました。
1979年の全人代会議では、香港や台湾に近く、海外華人の太いネットワークを持っている広東省と福建省に対外経済活動の大幅な自主権を与え、さらに広東の深圳、珠海を輸出特別区に指定。
さらに、1980年には、広東の汕頭、福建の廈門を合わせ、4つの経済特別区を設置し、対外経済交流、技術・資金導入を積極的に進めるため、関連法案の制定、各種インフラ整備など対外開放路線の環境整備を積極的に開始したと言われます。
鄧小平のこういうきめの細かい多方面にわたる心遣いがあったので、共産党一党独裁のもとにありながら、中国の全土の経済発展がたくましく進んでいるのでしょう。