矛盾論の批判と克服(24)
唯物弁証法がいうように、物事は確かに「矛盾しあう一方が、他方に変わる」と言えますが、それは、今の人間が神から創造された本性を失って〝堕落した状態〟のもとにあるためなので、ただ単に自らをその対立物に転化させるだけでは不十分であり、まず、神に由来する本来の神性(心情、ロゴス、創造性)と、及び完全な神相(性相・形状、陽性・陰性の二性性相、個別相)との関係性を取り戻す必要があるのです(『新版・統一思想要綱(頭翼思想)』光言社、23-76頁参照)。
ここで毛沢東は「それでは闘争性とはなにか」(『世界の名著78 孫文 毛沢東』中央バックス、401頁)と述べて、主題を「闘争性」の問題に移します。そして、「同一性と闘争性の関係はどうか」(同)と述べ、レーニンを引用します。
レーニンは「対立面の統一〔合致、同一、合一〕は、条件的、一時的、過渡的、相対的である。たがいに排除しあう対立面の闘争は、発展、運動が絶対的であるように、絶対的である」(同)と主張したと、毛沢東は言います。
「どんな事物の運動でも、二つの状態、つまり、相対的な静止の状態と顕著な変動の状態がある。………事物の運動が第一の状態にあるときには、量的な変化だけで、質的な変化はない。そこで、あたかも静止したかのごとき様相を呈する。事物の運動が第二の状態にあるときには、第一の状態の量的変化が、すでにある最高点に達して統一物の分解を起こし、質的変化が起こっている」(同、402頁)と言います。
それが一体どういうことなのか、毛沢東は統一、団結、連合などの例をあげ、これは「事物が量的変化の状態にあるときに呈する様相である。そして、統一物が分解し、団結、連合、調和………などの状態が破壊されて反対の状態に変わるのは、事物が質的変化の状態、ある過程から別の過程に移行する変化のさいに呈する様相である。
事物は、第一の状態から第二の状態へとたえず転化するものであって、矛盾の闘争は、この二つの状態に存在し、かつ第二の状態を経過して矛盾の解決に到達する」(同)。
そのためレーニンは、「対立面の統一は、条件的、一時的、相対的であるが、対立面のたがいに排除しあう闘争は絶対的である」と言ったのだと、毛沢東は言うのです。
この説明は、あまりに抽象的で分かりにくいので、水の状態の変化をその例として考えてみることにしましょう。
水はある温度まで液体の状態を続け、100度(沸点)を超すと液体の状態を保つことができなくなり、すべてが気体へと変化します。
水は、100度以下でも蒸発し気体に変わりますが、それは一部がそうなるだけで、すべてが水蒸気に変わるわけではありません。
毛沢東は、この100度の点(沸点)を革命の状態だと捉え、その時には液体の水に対応する古い団結、連合、調和はすべて破壊され、新しい状態の水蒸気に変わる。このように捉えて、闘争を肯定し、尊重するわけです。
このように、唯物弁証法は、闘争は不可避のものであり、闘争によって新しい状態への変化がもたらされるものとして、あくまでも闘争を絶対的なものだとして肯定するわけです。
そして、「矛盾の闘争は、過程を始めから終りまでつらぬくとともに、一つの過程を別の過程に転化させるものであって、矛盾の闘争が存在しないところはない。矛盾の闘争性は、無条件的であり、絶対的であるというのはそのためである」(同)と述べます。
この論理は、水の変化の例を挙げて説明すれば、分りやすくなるでしょう。水は100度以下でも蒸発して水蒸気にはなりますが、水のすべてがそうなるというわけではありません。しかし、100度(沸点)に達すると、それ以上熱を加えれば、水の状態にとどまることはできず、すべて水蒸気に変わってしまいます。これは矛盾の闘争性が絶対であることを示すというわけです。
しかし、水蒸気は冷やせば再び水に戻ってしまうわけであり、闘争性だけが水のすべての性質だと言い切ってしまうことはできません。
レーニンや毛沢東は、暴力革命を肯定したいがために、事物が闘争によって質的に変わることだけを取り上げて説明しようとします。けれども、暴力革命で一時質が変わったとしても、それで人間が幸福になるとはいえません。この論理は、愛によってのみ、人間の真の幸福が達成されるものであることを無視していると言わざるをえません。
現に、毛沢東の指導でなされた大躍進や文革などの暴力的闘争は、人民を幸福に導くことはできず、逆に不幸のどん底に突き落とし、鄧小平が逆に闘争を否定し、できることからしっかりやろう。豊かになれる条件を持っている地域が他に先んじて豊かになると認め(先富論)、その後、その成果を全体(後進地域)に及ぼして「共同富裕」に導こうという愛(闘争の否定)と、創造(できることからやる)を重んずる政策を取るようになってから、ようやく中国の経済は活気を取り戻したのでした。
このことから、闘争を絶対視するレーニンや毛沢東の論理は誤っており、統一思想のように愛をこそ絶対視しなければならないのであり、「先富論」(共同富裕)を強調した鄧小平のように、理論では唯物弁証法に立脚しつつも、実践面では愛と創造性を尊重するやり方の方が、毛沢東の理論よりまさっていたのだと言わなければなりません。
毛沢東は「闘争性は同一性のなかに宿っていて、闘争性がなければ同一性はない」(同、403頁)と言いましたが、これは闘争によって自己の立場を他に押しつけて、無理に同一化をはかろうとする一方的な論理であり、世界にあるすべてのものは互いに愛し合うように創造されたと見る有神論の立場から見るならば、「愛は同一性のなかに宿っていて、愛がなければ同一性はない」と言わなければならないでしょう。
実際、暴力革命によって人は幸福になるのでなく、愛によって自他が一つになり、その愛の関係が家族、氏族、民族、国家、世界へと拡大されることによってのみ、人類全体が同一性、すなわち争いのない一つの愛の家族・社会に変わっていくことができるのであり、これが幸福の究極の姿なのです。
毛沢東がいうように、矛盾は永遠不滅なのではなく、この全人類の親なる〝神〟と、その実体である〝メシヤ〟を中心とする「人類一家族世界」の形成によって、すべての矛盾は消滅していくのです。
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