矛盾論の批判と克服(25)
4.矛盾における敵対の地位
さて、毛沢東の主張するところによれば、「敵対」とは矛盾の闘争形態のすべてではなく、その一形態にすぎないと言います。
人類の歴史にはさまざまの階級社会――奴隷社会、封建社会、資本主義社会などがあり、長期にわたって共存し、闘争し合っているが、その二つの階級間の矛盾が一定の段階にまで発展した時、敵対の形態をとり、革命に発展する。爆弾も発火という新しい条件が生まれて、はじめて爆発が起こる。それと同じように、階級社会においても、最後に外面的衝突の形態をとり――革命が起こる。この革命は不可避であり、それなしには、反動的な支配社会を打倒し、人民に政権を獲得させることができない。
反動派は、社会革命は必要でなく、また不可能であると欺瞞的宣伝を行なうが、こういう社会革命はぜひとも必要であり、可能であって、全人類の歴史とソ連邦の勝利は、この科学的真理を証明するものだ、(『世界の名著78 孫文 毛沢東』中央バックス、403-404頁)と言います。
そして、矛盾と闘争はあらゆるもののうちにあり、絶対的であるが、闘争の形態は矛盾の性質の違いに応じて敵対性を持つ場合とそうでない場合があるので、その点について注意を払う必要があると言います(同、404頁)。
「ソヴィエト連邦共産党の歴史では、われわれに、レーニン、スターリンの正しい思想と、トロツキー、ブハーリンらの誤った思想との矛盾は、はじめは敵対的な形態をとって現われなかったが、のちには敵対的なものに発展したことを教えている」(同)。
ここで重要なのは、「誤りを犯した同志が、自己の誤りを正すことができれば、それは、敵対性のものに発展することはありえない」(同、405頁)と言うことである。それゆえ、「党は誤った思想にたいして、きびしい闘争をおこなわなければならないが、同時に、誤りを犯した同志については、自覚の機会を十分に与えなければならない」(同)と言います。
「経済面における都市と農村の矛盾は、資本主義社会………にあっては、きわめて敵対的な矛盾である。しかし、社会主義国や、われわれの革命根拠地にあっては、こうした敵対的な矛盾は、非敵対的な矛盾に変わり、共産主義社会に到達すれば、こうした矛盾は消滅する」(同)。このように、「敵対というのは、矛盾の闘争形態のすべてではなく、一形態にすぎない」(同)。
以上の説明から、毛沢東は、階級社会はそのまま放置すべきではなく、革命を起こして人民が政権を獲得できるようにすべきだが、同志が誤りを犯した場合には、その誤りを自覚させるようにして、その同志との関係が「敵対的」なものとならぬようにすることが望ましいと、心掛け次第で矛盾(これは最後までなくならない)が敵対なものへと発展することを防ぐことができると、大躍進や文革の時のような階級闘争至上論を緩和させている点は注目すべきでしょう。
5.結論
最後に毛沢東は矛盾論の全体を次のようにまとめています。
①事物の矛盾(対立面の統一)の法則は、自然と社会の根本法則、思惟の根本法則である。
②矛盾の普遍性と絶対性――矛盾は事物(客観)と思惟(主観)のすべての過程を始めから終りまで貫いている。
③矛盾の特殊性と相対性――矛盾する事物とその個々の側面は同質ではなく、それぞれ特徴を持っている。また、一定の条件によって同一性があり、したがって、一つの統一体に共存すること、たがいに反対の側面に転化して行くことができる。
④矛盾の党争は、やむときがない――それらが共存しているときにも闘争が存在しているが、とりわけ相互に転化するときに闘争がいっそうはっきりと現れる。
⑤矛盾の特殊性と相対性を研究するばあい、特に矛盾と矛盾の側面の主要なものと、主要でないものとの区別に注意しなければならない。
⑥矛盾の普遍性と闘争性を研究するばあい、矛盾のさまざまに異なる闘争形態の区別に注意しなければならない(同、406頁)。
これらの六つの要点を「ほんとうに理解できたならば、マルクス―レーニン主義の基本原則に反し、われわれの革命事業に不利な、かの教条主義思想を打破することができるであろう。また、経験ある同志たちにその経験を整理させ、それに原則性を与えることによって、経験主義の誤りをくりかえさせないですむであろう」(同)。
こう毛沢東は、矛盾論の全体を総括します。
毛沢東がこのように注意するのは、現在の社会の仕組みは永遠に不変であり、また変える必要がないとする現在の支配層の思想――形而上学、教条主義、経験主義を打破して、効果的に革命の敵を打倒し、革命を成功させるためでしょう。
第一に、形而上学は、矛盾論の最初の「二つの世界観」で述べたように、
①世界のすべての事物、事物の形態、種類(性質)と、現在のままの形で、永遠に孤立し、変化しないものと見る(変化があるとしても、質の変化ではなく、単なる量の増減と場所の移動があるにすぎないと見る)。
②このような増減と移動の原因は、事物の内部ではなく事物の外部にあると見る。
このようなものの見方は、現在の支配層にとって有利なので、彼らはすべての現象や変化をこのように捉えようとするのだと共産主義の革命家たちは主張するわけです。
教条主義、経験主義と呼ばれるものも、現実を単純に機械的にとらえるので、こういう形而上学的見方に陥りやすいと毛沢東は見るわけです。
それに対して、唯物弁証法の世界観は、
①世界のすべての事物は変化・発展し、その発展は事物内部の必然的な自己運動であり、その運動は周囲の他の事物と関連しあい、影響しあっているとみなす。
②このような事物発展の根本原因は、事物の外部にあるのではなく、事物の内部の矛盾にあると見る。
では、本当に「事物の発展は事物内部の必然的な自己運動であり」、「事物発展の根本原因は、………事物内部の矛盾性にある」などということができるでしょうか。
人間における「事物」の中心をなすものは何よりも肉体であろうと思われますが、肉体は細胞からなり、細胞は原形質と後形質とから成り、原形質は核(核酸・染色糸・仁・核液)と細胞質(基質・ミトコンドリア・色素体・ゴルジ体・中心体)とから、後形質は細胞壁・液胞・細胞含有物とから成り、デンプン・脂肪・タンパク質などを含んでいて、複雑な構造をしていますが、その配置は整然としていて、どこにも矛盾といえるようなものはありません。
その形成過程も、DNA → mRNA → タンパク質という整然たる機構にもとづいて高速度で正確にすべてが配置されるのです。
毛沢東はさかんに「現実の変化の同一性を科学的に反映したものが、すなわちマルクス主義の弁証法である」(400頁)などと「科学」をふりかざしますが、矛盾論の一体どこに科学的配慮などがあるといえましょうか。
このように、人間の肉体(物質)が矛盾の出発点にならないとすれば、「客観的事物」の代わりに「主観的思惟」(精神)における矛盾を究極の発信源と見なければならず、この「思惟」の方ならノイローゼの者もおり、論理に考えることが不得手な者もいるので、多少の説得性があるかとは思いますが、しかし、これを矛盾の根源の座に据えたのではもはや唯物論ではなく、唯心論となってしまうでしょう。
前にもふれたように、矛盾の根源を事物(物質)において革命理論の根拠に据えようとするマルクス・レーニン主義の発想は、ヘーゲルの観念弁証法――「有限なものは自己自身の中で自己と矛盾し、それによって自己を止揚し、反対者へ移行する」という観念の移り行きを唯物論に飜案したもの故、このようになっても無理はないのです。
ともかく、事物の中にある矛盾を探そうとしても、人間の肉身自体の中に矛盾が見いだされないのですから、どうにもなりません。
毛沢東の大躍進政策と文革の失敗と、毛沢東の矛盾論、階級闘争の重視を事実上無視した鄧小平の政治・経済の指導が辛うじて革命運動の全面的破綻から救い出したことから見ても、物質自体の中に矛盾が遍在する(矛盾の遍在性)という見方が完全に間違いであることは、これ以上再言する必要がないでしょう。
矛盾の普遍性を口実としての闘争という思想は、以上の考察から全く誤りであり、統一思想の愛と創造性、さらには人間を愛の実践者としてもともと創造された神への信仰と、それに基づく男女の結婚による愛の血統の増進(家庭から氏族、民族、国家、世界へと向かう全面的拡大)こそが、真の解決であることを悟らなければならないといえましょう。
―了い―