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韓国の反日政策は中国の革命戦略に利用されている

「特別寄稿」

韓国の反日政策は中国の革命戦略に利用されている

――(中国の革命戦略は愛国運動を利用することにある)――

 

「中国方式による南北統一」

プロレタリアートの階級闘争(革命運動)は全体主義的な愛国運動と対立する。

しかし、中国革命が例証するように、毛沢東は「反日愛国統一戦線」を掲げて蒋介石の国民党と共闘する(第二次「国共合作」、1937年)。その結果、「反日」(抗日民族統一戦線)で共産主義運動が愛国運動として労働者以外の農民や学者・文化人などに受け入れられ、広範な国民的基盤を中国全土に築き上げた。1945年8月に太平洋戦争が終結すると、共産党は蒋介石率いる国民党と再び対立し、闘争を展開する。そして、蒋介石は敗北して台湾に逃亡する結果になるのである。

 

唯物弁証法の発展法則とは、対立物の「統一」は条件的・一時的・経過的・相対的で、「闘争」は絶対的であるというのである。「統一」とは相手を必要とする関係で、「闘争」とは相手を排斥する関係をいう。

 

毛沢東もレーニンを引用し、「矛盾論」で次のように述べている。

「対立物の統一(合致、同一、均衡)は、条件的、一時的、経過的、相対的である。たがいに排斥しあう対立物の闘争は、発展、運動が絶対的であるように、絶対的である。」(毛沢東著『実践論 矛盾論』青木書店、96頁)

 

国民党との「統一」は条件的、一時的なもので、「闘争」が絶対的なのであった。そのごとく毛沢東は実践し、反日愛国運動を利用して中国革命を成功させたのである。蒋介石の立場から見れば、「反日」での共闘は騙されたということになる。

 

同様に、現在中国共産党は、「反日」で韓国の朴槿恵政権と愛国統一戦線を組んでいる。

歴史認識の問題で中国共産党は、「反日」で韓国政府と共通認識を持ち共闘している。

中国共産党から見れば、韓国政府との反日的な歴史認識での「合致」は一時的であって、韓国政府を排斥する闘争が絶対的なのである。

 

韓国と中国の反日愛国統一戦線は、中国方式による韓国共産化の戦略・戦術であることを朴槿恵政権は知らないのである。このまま「反日」で共闘を続けていくと、韓国は蒋介石の国民党と同じ運命になるのであろう。

 

中国主導による改革・開放による南北統一とは、韓国の共産化である。そのために、まず韓半島から日本の影響力を排斥することが必要であり、そのための戦略が歴史認識の問題なのである。それも、戦前の50年ぐらいに局限された歴史であって、日本国民は過去の戦争を深く反省し、戦後70年近くの間、平和国家として、韓国をはじめ中国などアジア諸国の経済発展に貢献してきた。その現在までの歴史認識は無視されるのである。日本の過ちは、「中国の改革・開放路線」は経済において資本主義であるが、哲学において共産主義であることを忘れ、共産主義を一掃しないで経済発展に協力したことにあるのである。その結果、戦闘的な怪物を育ててしまったことにあるのである。

 

「韓国の友好国である日本を敵視する愚行」

中国の戦略に乗せられた韓国の朴槿恵政権の反日愛国運動は、今日では国是となっている。

中国と韓国の日本に対する反日闘争は、偶然のものではない。意識的な共闘である。

 

中国におけるサッカー場での反日、韓国のサッカー場での反日がそうである。サッカー東アジア・カップ男子の日韓戦で、一部の韓国応援団(実は隠れた親中派革命分子)が、「歴史を忘れた民族に未来はない」と書いた横断幕を掲げ、また安重根の大きな垂れ幕をたらし、「反日」愛国運動を韓国で国民的に盛り上げようとしたことなどがそうである。

また、中国は尖閣列島で日本と対立し、韓国は李明博大統領が竹島(独島)に上陸して反日運動を盛り上げるなどをした。

「過去の歴史のみを見て、現在の状況を分析し、未来のビジョンを描かない民族には未来はない」と横断幕に反論したい。

 

さらに、フランスで開幕した、ヨーロッパ最大級のマンガフェスティバルで、韓国からいわゆる「従軍慰安婦」をテーマにした漫画が出品され、韓国の閣僚が現地入りするなどして、アピールを続けている。

民間が開催をし、漫画を通じた国際的な文化交流の促進、相互理解、友好親善の場で、このようなフェスティバルの趣旨にそぐわない状況が発生することは、極めて残念なことである。

キリストは「汝の隣人を愛せよ」と言われたが、反対に、韓国政府は友好的な日本人に憎悪を掻き立てているのである。神の真の愛に反した憎悪は、サタン的である。このような一連の反日運動は亡国への道であるとわれわれは懸念せざるを得ないのである。

 

「共産主義革命に利用される歴史認識」

日本は戦後70年近く、民主主義国家、平和国家として、韓国と友好関係を保持してきた。しかし、韓国は中国と一緒になって過去の歴史認識を主張するが、戦後から現在までの日韓の共同の歴史認識(経済交流、文化交流)を主張しないのは意図的なのであろうか。

 

韓国は、中国が経済で資本主義であるが、哲学において共産主義であることを忘れ、目先の利益を求めて中国と経済交流(部品の輸出)をしようとするが、技術を盗まれるだけでなく、韓国の共産化に財界が利用されるだけである。また、中国との関係を切ることができない経済構造になる。しかも、韓国が頼りにしてきた中国経済は崩壊寸前なのである。円熟した資本主義社会の経済学の知識や経営能力がないからである。

 

韓国の愛国運動を、反日で中国共産党が利用していることに気づかなければならない。愛国運動は、韓国の自主・独立と主体性の確立ではなく、中国の革命戦略に呑み込まれ、中国方式による南北統一であり、韓国の共産化であることに気づかなければならない。日本排除の次は、反米運動に転化していくであろう。周知のように、韓国が共産化されれば、反日運動を推進した朴槿恵政権の政府要人はじめ、多くの文化人や知識人やキリスト教信徒が粛清されるであろう。

 

「日韓米の一体化が平和的な南北統一への道」

勝共理念による日韓米の一体化が平和的な南北統一の基礎である。日本抜きではあり得ない。また、日朝の国交正常化が南北統一の基盤になる。北朝鮮の経済発展に日本が援助することになる。北朝鮮もそれを望んでいる。日本が南北の経済格差を是正することにより、南北統一の基盤ができ、同時に統一後の韓国国民の経済負担がなくなるのである。日本の経済的協力は南北統一に不可欠である。

 

「南北統一は文鮮明師の平和思想を抜きにしてあり得ない」

共産主義思想問題を解決することなしに、経済交流をすることは、中国を見れば分かるように、北に戦闘的な怪物(軍事的超大国)をつくることになる。共産主義の問題を平和的に解決できるのは「勝共理論」以外にないであろう。既存のヘーゲルやカントなどを利用した反共理論では不可能である。

1960年から1980年までの日本における共産主義運動を消滅させたのは、文鮮明師の提唱によって、1968年に日本で創立された「国際勝共連合」の運動である。その運動の理念は、「統一原理」(『原理講論』)を基盤とした「勝共理論」である。

韓国政府と日本政府は、この国際勝共連合の歴史的運動を認識すべきである。この勝共運動がなかったならば、日本は共産化されていた。日本が共産化されればアメリカはアジアから撤退し、韓国も共産化される。その悪夢を一掃したのが、文鮮明師の平和思想(勝共理論)なのである。ところが、韓国も日本も文鮮明師抜きで南北統一をしようとしているのである。しかし、それは不可能である。

韓半島の平和的統一は、文鮮明師の平和思想である「統一原理」と「勝共理論」抜きにしてあり得ないというのである。

 

「拉致問題解決のために日朝国交正常化をすべきである」

拉致問題は日朝国交正常化した後で、より促進でき、解決することができるのではないか。日朝国交正常化を阻止する手段として拉致問題を掲げ、政治的に利用しない方がよいのではないだろうか。

 

「核問題」について

北朝鮮の核武装は、防衛的なものである。

北朝鮮の核武装は、米国や中国から戦争を仕掛けられないようにするためである。核武装している北朝鮮に、米国はイラクのように戦争を仕掛けることはできない。同様に中国もベトナムに侵攻したように、北朝鮮に軍事的に介入することができなくなったのである。

 

南北統一する時、あるいはそれ以後においても、中国が軍事介入する可能性がある。核兵器はそれを思いとどまらせる。核兵器による反撃は、北京の消滅であるからである。中国はそれを恐れている。

 

「粛清」について

北朝鮮と中国の問題に関する、次のようなNHKの報道がある。

「中国の対北朝鮮政策のブレーンである北京大学の朱鋒教授は『中国は怒りと絶望感を抱いた。北朝鮮が孤立し閉鎖的になることを懸念している』という。中国は北朝鮮の非核化から改革開放へ導く道筋を描いており、北朝鮮側のキーパーソンが張成沢だったからだ。張が2012年8月に訪中した時、国賓待遇で当時の胡錦涛主席が会談したほどだった。

張は昨年2月の3回目の核実験にも反対した。中国から経済援助を引き出したかったからだ。今回の粛清(注:張成沢の粛正)はこれを反逆(注:国家転覆の陰謀)とした。北朝鮮の指導部内では、中国に従う必要はないという意見が強まっていたのだ」(2014年1月9日放送、NHKクローズアップ現代「北朝鮮はどこへ~見えてきた粛正の真相~」)と。

 

「中国は怒りと絶望感を抱いた」とは、中国方式による南北統一が流産したからである。今度は日本の出番である。最後のチャンスであるかもしれない。北朝鮮は八方ふさがりで、孤立化している。北朝鮮の周辺諸国が〝逃げ道〟なく連携して経済的に追いつめると、金正恩は死なばもろともと最後にソウルと東京と北京に核ミサイルを撃ち込むかもしれない。孤立化させる経済制裁は賢明な策ではない。

孫子の兵法には、逃げ道を一カ所作っておくべきであるという。したがって、もし日本が北朝鮮と国交正常化をすれば、平和的に南北統一ができる。その最後のチャンスが〝今来た〟というのである。その基盤は言うまでもなく、日韓米の一体化と文鮮明師の平和思想である。言い換えると、アメリカの仲介による平和的な南北統一である。韓半島(朝鮮半島)の統一と日本の一体化は2億の人口を持つ二つの優秀な民族となる。中国に負けはしない。

 

「北東アジアの平和は世界の平和への道」

現在、中国は貧富の格差が拡大し、人間は疎外され、民族問題を抱え、官僚の汚職は蔓延し、経済構造の内部矛盾で崩壊寸前なのである。これを救済し、新生中国に生れ変わらせるのも、文鮮明師の平和思想であることは言うまでもないことである。

 

文鮮明師の思想による解決、すなわち、民族や人種の壁、宗教の壁、国境の壁を撤廃し、「神様の下における人類一家族」を実現するという理念によって、中国の軍事的脅威を解消し、尖閣列島問題や竹島(独島)問題を平和的に解決することができるのである。

北東アジアの平和は、世界の平和への道である。

 

矛盾論の批判と克服(25)

4.矛盾における敵対の地位

 

さて、毛沢東の主張するところによれば、「敵対」とは矛盾の闘争形態のすべてではなく、その一形態にすぎないと言います。

 

人類の歴史にはさまざまの階級社会――奴隷社会、封建社会、資本主義社会などがあり、長期にわたって共存し、闘争し合っているが、その二つの階級間の矛盾が一定の段階にまで発展した時、敵対の形態をとり、革命に発展する。爆弾も発火という新しい条件が生まれて、はじめて爆発が起こる。それと同じように、階級社会においても、最後に外面的衝突の形態をとり――革命が起こる。この革命は不可避であり、それなしには、反動的な支配社会を打倒し、人民に政権を獲得させることができない。

反動派は、社会革命は必要でなく、また不可能であると欺瞞的宣伝を行なうが、こういう社会革命はぜひとも必要であり、可能であって、全人類の歴史とソ連邦の勝利は、この科学的真理を証明するものだ、(『世界の名著78 孫文 毛沢東』中央バックス、403-404頁)と言います。

 

そして、矛盾と闘争はあらゆるもののうちにあり、絶対的であるが、闘争の形態は矛盾の性質の違いに応じて敵対性を持つ場合とそうでない場合があるので、その点について注意を払う必要があると言います(同、404頁)。

 

「ソヴィエト連邦共産党の歴史では、われわれに、レーニン、スターリンの正しい思想と、トロツキー、ブハーリンらの誤った思想との矛盾は、はじめは敵対的な形態をとって現われなかったが、のちには敵対的なものに発展したことを教えている」(同)。

ここで重要なのは、「誤りを犯した同志が、自己の誤りを正すことができれば、それは、敵対性のものに発展することはありえない」(同、405頁)と言うことである。それゆえ、「党は誤った思想にたいして、きびしい闘争をおこなわなければならないが、同時に、誤りを犯した同志については、自覚の機会を十分に与えなければならない」(同)と言います。

 

「経済面における都市と農村の矛盾は、資本主義社会………にあっては、きわめて敵対的な矛盾である。しかし、社会主義国や、われわれの革命根拠地にあっては、こうした敵対的な矛盾は、非敵対的な矛盾に変わり、共産主義社会に到達すれば、こうした矛盾は消滅する」(同)。このように、「敵対というのは、矛盾の闘争形態のすべてではなく、一形態にすぎない」(同)。

 

以上の説明から、毛沢東は、階級社会はそのまま放置すべきではなく、革命を起こして人民が政権を獲得できるようにすべきだが、同志が誤りを犯した場合には、その誤りを自覚させるようにして、その同志との関係が「敵対的」なものとならぬようにすることが望ましいと、心掛け次第で矛盾(これは最後までなくならない)が敵対なものへと発展することを防ぐことができると、大躍進や文革の時のような階級闘争至上論を緩和させている点は注目すべきでしょう。

 

 

5.結論

 

最後に毛沢東は矛盾論の全体を次のようにまとめています。

 

①事物の矛盾(対立面の統一)の法則は、自然と社会の根本法則、()()の根本法則である。

②矛盾の普遍性と絶対性――矛盾は事物(客観)と思惟(主観)のすべての過程を始めから終りまで貫いている。

③矛盾の特殊性と相対性――矛盾する事物とその個々の側面は同質ではなく、それぞれ特徴を持っている。また、一定の条件によって同一性があり、したがって、一つの統一体に共存すること、たがいに反対の側面に転化して行くことができる。

④矛盾の党争は、やむときがない――それらが共存しているときにも闘争が存在しているが、とりわけ相互に転化するときに闘争がいっそうはっきりと現れる。

⑤矛盾の特殊性と相対性を研究するばあい、特に矛盾と矛盾の側面の主要なものと、主要でないものとの区別に注意しなければならない。

⑥矛盾の普遍性と闘争性を研究するばあい、矛盾のさまざまに異なる闘争形態の区別に注意しなければならない(同、406頁)。

 

これらの六つの要点を「ほんとうに理解できたならば、マルクス―レーニン主義の基本原則に反し、われわれの革命事業に不利な、かの教条主義思想を打破することができるであろう。また、経験ある同志たちにその経験を整理させ、それに原則性を与えることによって、経験主義の誤りをくりかえさせないですむであろう」(同)。

こう毛沢東は、矛盾論の全体を総括します。

 

毛沢東がこのように注意するのは、現在の社会の仕組みは永遠に不変であり、また変える必要がないとする現在の支配層の思想――形而上学、教条主義、経験主義を打破して、効果的に革命の敵を打倒し、革命を成功させるためでしょう。

 

第一に、形而上学は、矛盾論の最初の「二つの世界観」で述べたように、

①世界のすべての事物、事物の形態、種類(性質)と、現在のままの形で、永遠に孤立し、変化しないものと見る(変化があるとしても、質の変化ではなく、単なる量の増減と場所の移動があるにすぎないと見る)。

②このような増減と移動の原因は、事物の内部ではなく事物の外部にあると見る。

 

このようなものの見方は、現在の支配層にとって有利なので、彼らはすべての現象や変化をこのように捉えようとするのだと共産主義の革命家たちは主張するわけです。

教条主義、経験主義と呼ばれるものも、現実を単純に機械的にとらえるので、こういう形而上学的見方に陥りやすいと毛沢東は見るわけです。

 

それに対して、唯物弁証法の世界観は、

①世界のすべての事物は変化・発展し、その発展は事物内部の必然的な自己運動であり、その運動は周囲の他の事物と関連しあい、影響しあっているとみなす。

②このような事物発展の根本原因は、事物の外部にあるのではなく、事物の内部の矛盾にあると見る。

 

では、本当に「事物の発展は事物内部の必然的な自己運動であり」、「事物発展の根本原因は、………事物内部の矛盾性にある」などということができるでしょうか。

 

人間における「事物」の中心をなすものは何よりも肉体であろうと思われますが、肉体は細胞からなり、細胞は原形質と後形質とから成り、原形質は核(核酸・染色糸・仁・核液)と細胞質(基質・ミトコンドリア・色素体・ゴルジ体・中心体)とから、後形質は細胞壁・液胞・細胞含有物とから成り、デンプン・脂肪・タンパク質などを含んでいて、複雑な構造をしていますが、その配置は整然としていて、どこにも矛盾といえるようなものはありません。

 

その形成過程も、DNA → mRNA → タンパク質という整然たる機構にもとづいて高速度で正確にすべてが配置されるのです。

毛沢東はさかんに「現実の変化の同一性を科学的に反映したものが、すなわちマルクス主義の弁証法である」(400頁)などと「科学」をふりかざしますが、矛盾論の一体どこに科学的配慮などがあるといえましょうか。

 

このように、人間の肉体(物質)が矛盾の出発点にならないとすれば、「客観的事物」の代わりに「主観的思惟」(精神)における矛盾を究極の発信源と見なければならず、この「思惟」の方ならノイローゼの者もおり、論理に考えることが不得手な者もいるので、多少の説得性があるかとは思いますが、しかし、これを矛盾の根源の座に据えたのではもはや唯物論ではなく、唯心論となってしまうでしょう。

 

前にもふれたように、矛盾の根源を事物(物質)において革命理論の根拠に据えようとするマルクス・レーニン主義の発想は、ヘーゲルの観念弁証法――「有限なものは自己自身の中で自己と矛盾し、それによって自己を止揚し、反対者へ移行する」という観念の移り行きを唯物論に飜案したもの故、このようになっても無理はないのです。

 

ともかく、事物の中にある矛盾を探そうとしても、人間の肉身自体の中に矛盾が見いだされないのですから、どうにもなりません。

毛沢東の大躍進政策と文革の失敗と、毛沢東の矛盾論、階級闘争の重視を事実上無視した鄧小平の政治・経済の指導が辛うじて革命運動の全面的破綻から救い出したことから見ても、物質自体の中に矛盾が遍在する(矛盾の遍在性)という見方が完全に間違いであることは、これ以上再言する必要がないでしょう。

 

矛盾の普遍性を口実としての闘争という思想は、以上の考察から全く誤りであり、統一思想の愛と創造性、さらには人間を愛の実践者としてもともと創造された神への信仰と、それに基づく男女の結婚による愛の血統の増進(家庭から氏族、民族、国家、世界へと向かう全面的拡大)こそが、真の解決であることを悟らなければならないといえましょう。

―了い―

矛盾論の批判と克服(24)

唯物弁証法がいうように、物事は確かに「矛盾しあう一方が、他方に変わる」と言えますが、それは、今の人間が神から創造された本性を失って〝堕落した状態〟のもとにあるためなので、ただ単に自らをその対立物に転化させるだけでは不十分であり、まず、神に由来する本来の神性(心情、ロゴス、創造性)と、及び完全な神相(性相・形状、陽性・陰性の二性性相、個別相)との関係性を取り戻す必要があるのです(『新版・統一思想要綱(頭翼思想)』光言社、23-76頁参照)。

 

ここで毛沢東は「それでは闘争性とはなにか」(『世界の名著78 孫文 毛沢東』中央バックス、401頁)と述べて、主題を「闘争性」の問題に移します。そして、「同一性と闘争性の関係はどうか」(同)と述べ、レーニンを引用します。

 

レーニンは「対立面の統一〔合致、同一、合一〕は、条件的、一時的、過渡的、相対的である。たがいに排除しあう対立面の闘争は、発展、運動が絶対的であるように、絶対的である」(同)と主張したと、毛沢東は言います。

 

「どんな事物の運動でも、二つの状態、つまり、相対的な静止の状態と顕著な変動の状態がある。………事物の運動が第一の状態にあるときには、量的な変化だけで、質的な変化はない。そこで、あたかも静止したかのごとき様相を呈する。事物の運動が第二の状態にあるときには、第一の状態の量的変化が、すでにある最高点に達して統一物の分解を起こし、質的変化が起こっている」(同、402頁)と言います。

 

それが一体どういうことなのか、毛沢東は統一、団結、連合などの例をあげ、これは「事物が量的変化の状態にあるときに呈する様相である。そして、統一物が分解し、団結、連合、調和………などの状態が破壊されて反対の状態に変わるのは、事物が質的変化の状態、ある過程から別の過程に移行する変化のさいに呈する様相である。

事物は、第一の状態から第二の状態へとたえず転化するものであって、矛盾の闘争は、この二つの状態に存在し、かつ第二の状態を経過して矛盾の解決に到達する」(同)。

そのためレーニンは、「対立面の統一は、条件的、一時的、相対的であるが、対立面のたがいに排除しあう闘争は絶対的である」と言ったのだと、毛沢東は言うのです。

 

この説明は、あまりに抽象的で分かりにくいので、水の状態の変化をその例として考えてみることにしましょう。

水はある温度まで液体の状態を続け、100度(沸点)を超すと液体の状態を保つことができなくなり、すべてが気体へと変化します。

水は、100度以下でも蒸発し気体に変わりますが、それは一部がそうなるだけで、すべてが水蒸気に変わるわけではありません。

 

毛沢東は、この100度の点(沸点)を革命の状態だと捉え、その時には液体の水に対応する古い団結、連合、調和はすべて破壊され、新しい状態の水蒸気に変わる。このように捉えて、闘争を肯定し、尊重するわけです。

このように、唯物弁証法は、闘争は不可避のものであり、闘争によって新しい状態への変化がもたらされるものとして、あくまでも闘争を絶対的なものだとして肯定するわけです。

 

そして、「矛盾の闘争は、過程を始めから終りまでつらぬくとともに、一つの過程を別の過程に転化させるものであって、矛盾の闘争が存在しないところはない。矛盾の闘争性は、無条件的であり、絶対的であるというのはそのためである」(同)と述べます。

 

この論理は、水の変化の例を挙げて説明すれば、分りやすくなるでしょう。水は100度以下でも蒸発して水蒸気にはなりますが、水のすべてがそうなるというわけではありません。しかし、100度(沸点)に達すると、それ以上熱を加えれば、水の状態にとどまることはできず、すべて水蒸気に変わってしまいます。これは矛盾の闘争性が絶対であることを示すというわけです。

 

しかし、水蒸気は冷やせば再び水に戻ってしまうわけであり、闘争性だけが水のすべての性質だと言い切ってしまうことはできません。

レーニンや毛沢東は、暴力革命を肯定したいがために、事物が闘争によって質的に変わることだけを取り上げて説明しようとします。けれども、暴力革命で一時質が変わったとしても、それで人間が幸福になるとはいえません。この論理は、愛によってのみ、人間の真の幸福が達成されるものであることを無視していると言わざるをえません。

 

現に、毛沢東の指導でなされた大躍進や文革などの暴力的闘争は、人民を幸福に導くことはできず、逆に不幸のどん底に突き落とし、鄧小平が逆に闘争を否定し、できることからしっかりやろう。豊かになれる条件を持っている地域が他に先んじて豊かになると認め(先富論)、その後、その成果を全体(後進地域)に及ぼして「共同富裕」に導こうという愛(闘争の否定)と、創造(できることからやる)を重んずる政策を取るようになってから、ようやく中国の経済は活気を取り戻したのでした。

 

このことから、闘争を絶対視するレーニンや毛沢東の論理は誤っており、統一思想のように愛をこそ絶対視しなければならないのであり、「先富論」(共同富裕)を強調した鄧小平のように、理論では唯物弁証法に立脚しつつも、実践面では愛と創造性を尊重するやり方の方が、毛沢東の理論よりまさっていたのだと言わなければなりません。

 

毛沢東は「闘争性は同一性のなかに宿っていて、闘争性がなければ同一性はない」(同、403頁)と言いましたが、これは闘争によって自己の立場を他に押しつけて、無理に同一化をはかろうとする一方的な論理であり、世界にあるすべてのものは互いに愛し合うように創造されたと見る有神論の立場から見るならば、「愛は同一性のなかに宿っていて、愛がなければ同一性はない」と言わなければならないでしょう。

 

実際、暴力革命によって人は幸福になるのでなく、愛によって自他が一つになり、その愛の関係が家族、氏族、民族、国家、世界へと拡大されることによってのみ、人類全体が同一性、すなわち争いのない一つの愛の家族・社会に変わっていくことができるのであり、これが幸福の究極の姿なのです。

 

毛沢東がいうように、矛盾は永遠不滅なのではなく、この全人類の親なる〝神〟と、その実体である〝メシヤ〟を中心とする「人類一家族世界」の形成によって、すべての矛盾は消滅していくのです。

 

矛盾論の批判と克服(23)

3.矛盾の諸側面の同一性と闘争性

 

毛沢東はさらに、矛盾の諸側面の同一性と闘争性との差異、相互関係について正確に理解する必要があると主張します。

「同一性」という概念は、次のような二つの状況を指示するものである。

 

①事物の発展過程における個々の矛盾の二つの側面が、それぞれ自己と対立する側面を、その存在の前提としていて、両者が一つの統一体に共存していること、

②矛盾する二つの側面が、一定の条件によって、それぞれ反対の側面に転化すること。(『世界の名著78 孫文 毛沢東』中央バックス、396頁)

 

そして、①の例として、生と死、上と下、禍と福、有利と困難、地主と小作農、ブルジョアジーとプロレタリアート、帝国主義による民族的抑圧と植民地、半植民地といったものがあると言います。

 

「対立する要求は、すべてこのようであって、一定に条件によって、一方ではたがいに対立しながら、他方ではたがいに結びつき、たがいに貫通し、たがいに浸透し、たがいに依存している。このような性質を同一性という」(同、397頁)。

しかし、それらの側面はいずれも、「一定の条件によって不同一性をももっているので、たがいに結びついている」(同)。

 

毛沢東が挙げている事例のうち、地主と小作農、ブルジョアジーとプロレタリアート、帝国主義と植民地などの同一性と矛盾については、確かにこういう複雑な説明が必要でしょう。

しかし、生と死、上と下に、こんなややこしい説明が当てはまるでしょうか。生は死ではない。上は下ではない。したがって、「矛盾」とか「同一性」という規定の仕方は、全く適切ではなく、単に「反対」を意味するとしか言えないのではないでしょうか。

 

統一思想では、このような対の関係を、単に「陽性と陰性の二性性相」の一例だと見、同一性と矛盾といった一見深みがありそうに見える神秘的な説明は、「唯物弁証法」という事実を曲げてとらえる、単なる詭弁のなせるまやかしだと捉えるのみです。

具体的には、この連載「矛盾論の批判と克服」のうちの、(5)~(9)などを読んでいただきたいと思います。

 

レーニンは、「弁証法は、どうして対立面が同一であることができ、また………それらは、どんな案件のもとで、たがいに転化しあいながら、同一となるのか………ということを(死んだ、硬直したものとならないように)研究する学説である」(同、396頁)と言っているようですが、それは、レーニンが革命に成功したために〝唯物弁証法〟がすばらしいものだと信奉者に買いかぶられるようになっただけのことのようにしか、私には思われません。

(上述のごとく、唯物弁証法を盲信した毛沢東の指導でなされた大躍進と文革は、みじめな大失敗におわっているのです。)

 

毛沢東は、「どうして対立面が同一であることができるのか」という問いに対して、それは両者が「たがいに存在の条件になっているからである」と答え、「これが同一性の第一の意義である」としています。

 

しかし、それだけで十分であるとはいえないと言い、「矛盾する両者が、たがいに依存するだけで、事はかたづくのではない。いっそう重要なことは、矛盾する事物が、たがいに転化することである。つまり、事物内部の矛盾する二つの側面は、一定の条件によって、それぞれ自己と反対の側面に転化し、自己と対立する側面がいた地位に転化する。これが矛盾の同一性の第二の意義である」(同、397頁)と説明しました。

 

「どうしてここにも同一性があるのか。みたまえ。被支配者であったプロレタリアートは、革命を経て支配者に転化し、もとの支配者であったブルジョアジーは、被支配者に転化して、相手がもといた地位に転化していく。ソヴィエト連邦は、すでにそうなっており、全世界も、やがてそうなろうとしている。その間に、一定の条件下における結びつきと同一性がないとしたら、どうしてこのような変化が起こりうるであろうか」(同、397-398頁)。

 

毛沢東はここで、事物内部の矛盾する二つの側面が、一定の条件によって、それぞれ自己と反対の側面に転化する例を三つ挙げています。

 

「プロレタリア独裁………を強化することは、こうした独裁をなくし、いかなる国家制度をも死滅させた、より高い段落へ進む条件を準備することにほかならない」(同、398頁)。

「共産党を創立し発展させることは、共産党とその他すべての政党制度を消滅させる条件を準備することにはかならない」(同)。

「共産党が指導する革命軍を建設し、革命戦争を進めることは、戦争を永遠に消滅させる条件を準備することにほかならない」(同)。

 

大変結構なことですが、その次には「戦争と平和はたがいに転化する。戦争は平和に転化する」。「第一次世界大戦や中国の内戦」のようにと言います。

ところが、また逆に「平和は戦争に転化する」。1927年の国共合作は、戦争に転化したし、いまの世界平和の局面も第二次世界大戦に転化する可能性がある。それは「戦争と平和という矛盾する事物が、一定の条件のもとで同一性をもっているからである」と言います。

これでは、平和=戦争だといえるだけで、平和になるか戦争になるかは、その時の条件次第でどちらとも言えないということになります。

 

「すべて矛盾は、一定の条件によって、その反対の側面に転化する」。そんなことは唯物弁証法によらずとも分かり切ったことであり、どういう時に戦争になり、平和になるかが予測できなければ、何の役に立つというのでしょうか。

 

「現在の、また歴史上の反動的支配階級」と、幸福にするという動機で〝革命〟を起こすのではなく、ただ人民をうまく取り込んでひとまとめにし、その力で今の支配者を倒して自分たちが新たに支配者となるというだけでは、ただ支配者が変わるだけで、人民たちは幸福にはなりません。

甲が支配していたのが乙の支配に変わるというだけでは、単に支配者が変わるというだけのことであって、何一つ人民が得るものはないのです。

 

唯物弁証法は、「すべての矛盾は、一定の条件によって、その反対の側面に転化する」(同、399頁)というだけで、物事を力の面だけで考え(闘争の論理)、幸福の増進という側面(愛の論理)については何も考慮していません。ここに、その考えの不十分さと、さらには恐ろしさがあると言わなければなりません。

 

支配者が変わっても、あるいは自分たちが支配者になったとしても、自分たちのことだけ考える利己心、貪欲が残っていたなら、何の得るところがあるでしょうか。

唯物弁証法は、毛沢東が自認しているように、「世界には運動する物質以外に存在するものはなく」(同、377頁)と、人間をも心を持たない単なる「運動する物質」とだけ見て、心情、愛、良心、創造性といった心の働きやそれを生かすにはどうしたらいいかという一元二性論(唯一論)の観点から見るところがないのです。

この点に、その理論の〝不足〟と〝恐ろしさ〟があると言わざるをえません。

 

矛盾論の批判と克服(22)

2.主要な矛盾と矛盾の主要な側面

 

毛沢東はさらに、矛盾の特殊性を考えるに当たっては、「主要な矛盾」と「矛盾の主要な側面」をとくに取り上げてくわしく分析する必要があると言います。

 

「複雑な事物の発展過程には、多くの矛盾があるが、そのうち、かならず一つが、主要な矛盾であり、その存在と発展が、その他の矛盾の存在と発展を規定し、あるいは、それらに影響を与える。たとえば、資本主義社会においては、プロレタリアートとブルジョアジーという二つの矛盾した力が、主要な矛盾である。その他の矛盾した力、たとえば、残存する封建階級とブルジョアジーの矛盾………ブルジョア民主主義とブルジョワ・ファシズムの矛盾、資本主義国相互間の矛盾、帝国主義と植民地の矛盾………等々(があるが、それら)は、すべてこの主要な矛盾の力によって規定され、影響される」(『世界の名著78 孫文 毛沢東』中央バックス、389頁)といいます。

 

また、中国のような半植民地国に対して、帝国主義が侵略戦争をしかける場合には、その国内部の諸階級は、一部の売国分子をのぞき、一時的に団結して帝国主義に反対する民族戦争を起こす。この場合には、帝国主義とその国との矛盾が主要な矛盾となり、その国内部の諸階級間の矛盾は一時、従属的な地位にさがると言います。1840年のアヘン戦争、1894年及び今日の中日戦争、1900年の義和団戦争がそうだと言います。

 

帝国主義が戦争によってではなく、政治、経済、文化などの比較的おだやかな形で圧迫をおこなう場合には、半植民地国の支配階級は、帝国主義に投降し、両国は同盟を結んで、ともに人民大衆を圧迫するようになる。こういう場合、人民大衆は、しばしば国内戦争の形で、両国の支配階級の同盟に反対する。帝国主義の側は、しばしば直接行動を止めて、半植民地国の反動派の人民大衆に対する圧迫を援助する。中国の辛亥革命戦争、1924年から27年の革命戦争、1927年以後の土地革命戦争などが、みなそうだと言います。

 

この時、外国帝国主義と国内の反動派が一方の極、人民大衆が他方の極に立つ。これが、その時の主要矛盾である。ロシアでは、十月革命ののち、資本主義諸国が反動派を援助した。これも同じパターンである。1927年の蒋介石の裏切りは、こういう場面で革命陣営を分裂させた例であると言います。

 

このように、いろいろのパターンがあるが、「過程が発展するそれぞれの段階では、一つの主要な矛盾だけが指導的な働きをしていることは……疑う余地がない」(同、390頁)。それゆえ、二つ以上の矛盾が存在する複雑な過程に対しては、「全力をあげて、その主要な矛盾をさがしださなければならない。主要な矛盾をつかむならば、問題はすべて、たちどころに解決される。」(同、391頁)

 

さらに、さまざまな矛盾のなかの「矛盾の諸側面はその発展が不均等である」(同)から、矛盾する二つの側面のうち、どちらが「指導的な働きをする側面」(主要な側面)かを見抜かなければならないと言います。

さらに、新旧二つの側面は闘争し合い、その結果、「新しい側面は、小から大に変わって支配的なものに上昇し、古い側面は、大から小に変わってじょじょに消滅するものになる」(同、392頁)。それゆえ、今どちらの側面が主要な支配的な側面となっているか、絶えず注意していなければならないとも言います。

 

毛沢東のこれらの指摘は、彼が愛や創造(自由)の論理によっても動く政治や経済の発展の指導においては全く無能でしたが、闘争の論理において大筋が片付く戦争の指導は天才的でしたので、これらの分析が〝戦争に勝つため〟には、きわめて重要なものなのだろうと思います。

しかし、それでは宗教家の生き方、価値というものをこの論理で割り切っても差し支えないのでしょうか。

 

2000年前に、イエス・キリストは当時のユダヤ教の上層部に対し、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ、あなたがたは、わざわいである」と痛烈に批判し(マタイ23章)、そのために激しい怒りを買い、30才から約3年、本格的な伝道をしただけで捕えられ、大祭司カヤパが「あなたは神の子キリストなのかどうか」と問うたのに対し、「あなたの言うとおりである」と答えたために、「神を汚した」(マタイ26章65節)とされ、当時のユダヤ教指導者らは群衆を扇動してイエスを十字架に追いやりました。

 

イエスは十字架で「父よ、彼らをお許しください」(ルカ23章34節)と執り成しをして亡くなり、3日目に復活して40日間、弟子たちを指導した後、昇天します。さらに10日後の聖霊降臨により、イエスをキリスト(メシヤ)と信ずる者たちが増えて、今日のカトリック教会、東方教会、プロテスタントなど、併せて約20億7000万人にまで達しています。

ちなみに、イスラム教は約12億5000万人、仏教は約3億8000万人で、キリスト教はどの宗教よりも信徒数の数は多いのです(白取春彦『今知りたい世界四大宗教の常識』講談社、17頁)。

 

また、このイエスの教えを完全な形(統一原理、統一思想)にまで発展させた文鮮明師は、日本で1回、北朝鮮で3回、韓国で1回、米国で1回の合計6回も厳しい取り調べや投獄の処分を受け、それでも、生地韓国の敵に当たる日本に対し、国交がない状態のなかで宣教師を派遣しました。その宣教師は刑務所に入れられ、病気で療養所にいたところを脱出し、その後、東京に行って、そこで伝道して信者を増やします。

 

このような文鮮明師と、その弟子たちの動きは、果たして毛沢東が矛盾論で力説していることと一致するでしょうか。

文鮮明師の祖国、韓国は日本に力ずくで併合されたのであり、さらに、自分自身も独立運動の中心となったために日本の官憲に逮捕され数々の拷問を受けたのですから、毛の唯物弁証法の論理によれば、文鮮明師にとって日本は韓国を植民地として併合した帝国主義国家であり、「帝国主義とその国」という最も主要な矛盾の関係にあると言わなければなりません。

 

それにもかかわらず、文鮮明師は日本を最も主要な敵としてこれと闘ったのではなく、日本を最も親しい国(韓国を夫とすれば妻の立場の国)として選び、最も優秀で勇敢な弟子を日本に密航させてまで伝道させたのでした。

これは本来ならば、キリスト教国であるイギリスを妻、アメリカを次子、フランスを長子の立場に立てるべきであったのですが、キリスト教が文鮮明師を受け容れなかったので、その代わりにキリスト教徒が全人口の1%にも満たない日本を妻に立て、アメリカを次子、ドイツを長子の立場に立てるようになったのだと言います。

 

(どうして、次子の立場が長子の立場より上位に来るかは、聖書冒頭の創世記に神がアダムとエバの子――長子カインと次子アベルに供え物をさせて、次子アベルの供え物のみを顧み、カインの供え物を顧みなかったという記述があるのと関係があるのですが、簡単には説明できないので略します。そのわけを知りたい方は、統一原理の堕落論をお読みください。)

 

この文鮮明師と毛沢東の思想を比較検討すると、毛沢東の思想は闘争の論理で、敵と見るものをすべて滅ぼすか、力ずくで支配しようとするのに対して、文鮮明師の思想は愛の思想で、神が人間をはじめとするすべてのものが幸福に生きられるようにとの願いのもとに創造されたという原点に立ち戻って、敵をも命がけで愛し救おうという動機のもとに、そのためにはどうするのが最善かという問いに基づいて構築されている、という大きな違いがあるということが分ります。

 

この両者を比較すると、すべてを幸福と繁栄に導くためには、闘争の論理ではなく、愛の論理に基づいてすべてを観察し、救いに導くのでなければならないという結論に達するのではないでしょうか。

 

矛盾論の批判と克服(21)

毛沢東は、「人類の認識運動の順序」として、「人々はなによりもまず、多くの異なった事物の特殊な本質を認識し、そうしてはじめて、さらに一歩進めて概括をおこない、さまざまな事物の共通の本質を認識できる」(『世界の名著78 孫文 毛沢東』中央バックス、378頁)と主張しています。

 

しかし、この「多くの異なった事物の特殊な本質を認識」するに当たって、自分の敵をも愛して〝救い出そう〟という動機とその〝愛〟を可能ならしめる統一思想の二性性相(性相すなわち心と、形状すなわち体、男女などの陽性と陰性の対構造)と四位基台(心情すなわち愛に由来する共通目的のもとにその二性性相の円満な授受作用を求めるものの捉え方)の論理で多くの異なる事物の特殊な本質を捉えるのか、それとも初めから相手を自分と相容れぬ〝敵〟と見て、愛に基づく授受作用によって一体となろうというのではなく、何としてでも相手を自分の意のままに動かすか、相手があくまでも従わない場合には闘って断乎として〝滅ぼそう〟という、支配と闘争の論理(唯物弁証法)で、自分を取りまく多くの事態(事物)の特殊なあり方を捉える場合とでは、同じく「特殊」と呼んでも全然別のものとなり得るし、また、その特殊性を概括して共通の「本質」を導き出しても、それもまた全く異なるものとなって来るのではないでしょうか。

 

後者のようなやり方(唯物弁証法)で、毛沢東がつかみ出した「共通の本質」は、どれだけ細かく事態を正確に観察したとしても、それに従う人民を幸福に導くことができるはずがありません。

 

そのために、毛沢東は、支配と闘争の論理でうまくいく遊撃戦争の指導には成功しましたが、愛と許しの論理が必要な政治や経済――大躍進と文革には全く失敗しました。

 

一方、理屈ではうまく言えなくても、愛と許し(自由の尊重)の論理を一部導入した鄧小平が、第二次天安門事件のような残虐なこともしでかしましたが、大局的には、中国を平和で豊かな国にすることには成功したと思われるのです。

 

また、毛沢東は、「問題を研究するばあい、主観的、一面的、表面的であってはならない」(同著、380頁)と言い、「主観的というのは、問題を客観的にみるすべを知らぬこと、つまり問題を唯物論の観点でみるすべを知らぬことである」(同)と主張しました。

 

ここで「唯物論的」というのは、物事が心の働きに従って生ずるのではなく、物事がどういうわけか(毛沢東の信ずるところに従えば、矛盾によって)まず動き、後でその動きを心で捉えるという見方のことです。

 

しかし、現実は果たして、まず物が動き、それから心がそれにつれて受動的に動くというようになっているでしょうか。

毛沢東はこういう見方をしたために、まず、人民公社(物質的仕組み)をつくって、農民を一律に5000戸も一緒にし(集団化)、囚人のように働かせる(機械化)ということを平気でしたのです。

 

こういう農民の「心」を重んじない、唯物論的な物事の処理の仕方こそが、大躍進施策の失敗の根本原因なのではないでしょうか。

 

たとえば、ある県党委書記は、「人民公社で生産量を過少申告する農民の摘発運動を展開した。ある日には四十人以上が拷問を受け、うち四人がその場で死んだ。見かねて制止に入った青年も、がんじがらめに縛られてこん棒や革ベルトで全身を打ちすえられ、哀願しながら息絶えた。遺体は川に投げ棄てられた」(『毛沢東秘録〈上〉』扶桑社、295頁)

 

その信陽専区全体で、1959年11月から1960年7月までに、「拘留された者は一万七百二十人にのぼり、六百六十七人が留置場で死亡したという」(同)のです。

 

これなどは、唯物論的なものの見方が、いかに残酷非道なものであるかを如実に示しているといえましょう。

農民たちは、毛沢東の見方と同様に、管理者から単なる物質と見られており、唯物論的な非常な指令――「生産量の過少申告への摘発運動」が、〝死刑〟に値する重大犯罪と見られていることが分ります。

 

この過少申告の罪を犯した者はみな、地区によっては1万人以上も殺害されており、農民の「心」は全く無視され、毛沢東の指令に従わなかったというだけで、まるで虫けらのように生きる権利さえもないとみなされているのです。

 

問題を「唯物論の観点」で見なければならないという毛の主張が、どれだけ凶悪で人間性に反する残酷なものの見方か、あえて論ずる必要もありません。

毛にとって、農民の幸福(心)のために、食量の生産(物)があるのではなく、生産のために農民があり、生産増強のためなら何百人もの農民を殺してもいいというのです。これほど誤ったものの考え方はないといえましょう。

 

鄧小平が、一切の闘争を禁じたのは、当然とはいえ、絶望的な凶悪な事態を少しはましなものにしたといえましょう。

毛の大躍進政策の大失敗のために、「ひどい村では八十日間一粒の穀物もないというありさまだった」(『毛沢東秘録〈上〉』扶桑社、295頁)というのです。

 

生産(物)のために農民の心があるという唯物論的なものの捉え方をすると、こんな惨状を招くのです。そのため、「だれでも腹いっぱい食べられると宣伝された『公共食堂』は機能しなくなっていた」(同)のであり、実際、その前に、ただ空腹を満たすためだけの「公共食堂」(物の供給)など農民には何の魅力もなく、貧しくとも家族の団欒(心の交わり)の方がどれだけ楽しいか分かりません。

 

毛沢東の予想に反して、「公共食堂」は何よりも不評であり、至るところで廃止が求められました。

また、栄養失調で病気になり、農村を逃げ出す農民が多くなっても、監督は、「穀物がないのではない、九割の者は思想に問題があるのだ」(同)と言い、民兵に村を封鎖させ、都市部の各機関や工場には農村から逃げた者を受け入れないように指令を発したという例まであるのです。

 

これも、飢えよりは、共産党の管理体制が重要だと、農民の自由(心)や、さらには生死(物)さえも、管理体制の維持(物の中の物)よりも軽く見るものであり、唯物論という名の利己主義の極致で、共産党の存在意義さえあやしくなって来ます。

 

こういう価値観でいかに問題を「全面的」に見たところで、どうにもならないのではないでしょうか。

毛沢東は、こういう物の見方の基本を、全く一方的に唯物論に帰着させ、その上で、問題を研究する場合に、「主観的、一面的、表面的」ではなく、「客観的(唯物論的)、全面的、根本的」にものを見るというのです。

 

しかし、ものを見るに当たっての動機が、このように利己的、闘争的であるならば、いくら「客観的、全面的…云々」といって努めたとしても、その研究の対象となる〝農民〟や〝労働者〟を幸福にすることなど絶対にできるはずもなく、むしろ死ぬ以上の苦しみを与えるだけなのではないでしょうか。

 

矛盾論の批判と克服(20)

六、毛沢東の矛盾観の総合的批判

 

以上、毛沢東の矛盾観を根本から検討する手掛かりとして、文化大革命における毛沢東の言動、遊撃戦争についての毛のコメント、毛沢東と異なるスタンスを取る鄧小平の政治・経済の戦略を略述した土台の上で、総合的な批判を提起してみましょう。

 

1.矛盾の特殊性をめぐって

 

毛沢東は、「矛盾の普遍性」の次に「矛盾の特殊性」についての論考の中で次のように述べています。

 

「どんな運動形態でも、その内部には、それ自身の特殊な矛盾がふくまれている。この特殊な矛盾が、ある事物を他の事物から区別する特殊な本質を形づくっている。これがつまり、世界のさまざまな事物が千差万別であることの内在的原因、あるいは根拠と呼ばれるものである。」(『世界の名著78 孫文 毛沢東』中央バックス、377頁)

 

ここで毛沢東が、どんな運動形態にもその内部にはそれ自身の特殊な「矛盾」が含まれていると言いますが、それは「矛盾の普遍性」と称するものを検討した時に詳しく論じましたが、すべての事物、運動形態のうちには〝矛盾〟が含まれているという全く無理で強引な論法に基づく主張です。

 

この矛盾遍在の理論は、ヘーゲルがすべての「有限なものは自己自身の中で自己と矛盾し、それによって自己を止楊し、反対者へ移行する」(観念弁証法)と主張したのを唯物論的に改作して、「一切は、他と相互関係にありながら、自己の内部における対立物との闘争によって自己運動を起こし発展する」(唯物弁証法)と定式化し、それによって「世界を新たなものの生成、量から質への転化、古いものの消滅という諸過程の複合として認識」しようとした(『広辞苑第四版』2321頁)ところから理論的に要請されて出て来たものです。

 

それは、「資本主義的社会秩序、その反定立としての無産階級、戦いとられるべき綜合としての階級なき共産主義社会」(ヒルシュベルガー著『西洋哲学史Ⅳ現代』理想社、53頁)という対比で、革命の必然性を示そうとして、マルクス、エンゲルスから、レーニン、スターリン、毛沢東へと受け継がれて来た観念的な構成物です。

 

しかし、こういう物の考え方は、果たして現実と合っているでしょうか。その点を機械、人間以外の生物、人間と社会の三点から吟味してみることにしましょう。

 

機械について。これには明らかに何の内部矛盾もありません。もしあったなら、それは機械としての役割を果たすことはできません。弁証法に対立する世界観を機械論と言いますが、まさしくその名の通り、機械は特定の目的と構想のもとに、常に全く同じ役割を果たすように厳密に造られているのが良い機械です。

 

もちろん、その機械を正確、広汎に使いこなすためには、その機械の「特殊性」を細かく全部、正確に知っている必要がありますが、それは決して「矛盾の特殊性」ではなく、発明者、製作者の意図(そこに矛盾などありません)を知る必要があるのです。

機械は、上手に使えばいつまでも同じ効果を上げるのであって、〝否定〟も〝否定の否定〟もなく、対立、闘争、量から質への転化、発展などいっさいありません。

 

人間以外の生物について。人間以外の生物も、DNAの指示どおりになるのであって、その過程には基本的には何の矛盾も発展もありません。生きていかなければならないので、他の生物を食べたり、逆に食べられないように逃げなければなりませんが、いつも同じことをするのであって、そのやり方の間にも矛盾もなければ、発展もありません。

 

また、人間以外の生物には、自分を中心とした〝帝国〟を創ろうなどという野心もなく、食べ方や逃げ方などは生まれつきの本能や、親のしつけ方などで決まるのであって、千篇一律。何年経ってもその行動の仕方には著しい改良など見られません。

 

人間について。人間の段階に至って、人間には全く新しいものを発明する創造性があり、また、自分を中心とした国家や会社を造ろうという野心を持つようにもなるので、そうした創造性や自己中心性のために、その欲望が互いに相容れぬものとなる結果、初めて唯物弁証法が主張するような「矛盾」が生じて来ます。

 

しかし、人間には同時に人を愛し、相手のために尽くそうとする気持ちもあるので、こういう愛他主義的な心情は矛盾せず、人間の場合でも、常にその間に矛盾が生ずるとは限りません。

 

「統一思想」は、人間は本来、結婚を通じて、夫婦・父母・親子・兄弟姉妹という四大心情圏の開発を土台として、家族、氏族、民族、国家、世界を築き、矛盾ではなく、逆に尽くし合うことによって完全な愛の調和の世界を形成できるはずであったが、人類最初の一組の夫婦の「堕落」によって、その葛藤が代々拡がって、今見るような矛盾に満ちた世界になってしまったのだと見ます。

 

したがって、すべての人間の感情や行動が、最初から矛盾するようにはなっていないのであって、その点を〝悔い改めること〟が先決だと見ます。そういう前提で、毛沢東の言うように、「中国の側(の事情)だけがわかって日本の側はわからない、共産党の側だけがわかって国民党の側はわからない、プロレタリアートの側だけがわかってブルジョアジーの側はわからない、農民の側だけがわかって地主の側はわからない、有利な状況の側だけがわかって困難な状況の側はわからない」(『世界の名著78 孫文 毛沢東』中央バックス、380-381頁)というのではなく、すべての事情を詳しく知る必要があると見ます。

 

そうして、何よりも、その事情の知り方が、闘争の論理である唯物弁証法の固定観念からではなく、人間の本性をその根底まで掘り下げた愛の論理――「統一思想」の観点から検討して見なくてはならないと見ます。

 

毛沢東が主張する「労働者階級と農民階級の矛盾は、農業の集団化と機械化の方法によって解決される」などという論理は、唯物弁証法への盲従がもたらした暴論であり、そのために5000戸の農家を一つに束ねて働かせるという、およそ非人間的な人民公社絶対論となり、大躍進運動の大失敗――数千万人を餓死させるという悲惨な結末を招いたのです。

 

いくら詳しくさまざまな事情を考慮しても、その事情の知り方の根本となる思想の骨格が間違っていたのではどうにもならない道理です。

毛沢東は、「ただほかに変えようがないと決めこんだ一つの公式を、ところかまわず、千篇一律に、むりやりにあてはめる。これでは革命を挫折させるか、もともとうまくいっていることをも、ぶちこわすほかはない」(同、379頁)と自分で言っていますが、そういう下手な公式こそこの闘争の論理――唯物弁証法であると、大事に至らぬ前に早く気づくべきだったのではないでしょうか。

 

鄧小平も「唯物弁証法」が絶対正しいと信じ切ってはいましたが、現状をよく見て、「闘争を煽ってはならない」「できる事からしっかりやる」「自分の考えを画一主義におしつけてはならない」「豊かになれる条件を持つ一部の人や地域が他に先んじて豊かになってもかまわない」「西側の先進技術、資金を大量に導入しなければならない」など、闘争否定の愛の論理、和の論理、創造の論理を事実上広く組み入れたために、挫折した毛沢東路線を建て直すことができたのではなかったでしょうか。

 

矛盾論の批判と克服(19)

五、毛沢東と鄧小平の思想の比較

 

毛沢東は確かに思想家であっただけでなく、戦争の指導にはたけており、その手腕により第二次世界大戦後、わずか4年余りで大陸から蒋介石を追い出して中華人民共和国を発足させるという大仕事をなし遂げました。

しかし、1958年から着手した大躍進と文革は、全く観念的、独善的なものであり、数千万人にも及ぶ人民を餓死、殺戮に導き、このままではどうにもならない惨状であったのを、葉剣英の手引きで華国鋒政権の陣頭指揮に立つようになった鄧小平が、限界はありましたが、みごとに立て直しました。

 

この二人の思想、手腕にはどのような違いがあったでしょうか。これは「矛盾論」の評価ともかかわりがありますので、その要点を調べてみることにしましょう。

 

毛沢東はどこまでも理詰めで、『矛盾の特殊性』にも述べられているように、「プロレタリアートとブルジョアジーの矛盾は、社会主義革命の方法によって解決される」(『世界の名著78 孫文 毛沢東』中央バックス、379頁)。「社会主義社会における労働者階級と農民階級の矛盾は、農業の集団化と機械化の方法によって解決される」(同)と割り切り、農民の家族的心情的関係を全く無視しています。

 

そして、「高度の生産性」と「生産手段の全人民的所有」を実現することによって、全農民を平等に富ませることができるとして、上述のごとく、何と5000戸もの農民をひとくくりにして労働させ、その生産物を全部、ひとかけらも農民の自由にさせず、人民公社に収めさせました。

また、食べるのも人民公社の公共食堂で、無料で提供されるものを食べよと、まるで終身懲役か家畜のように人々を扱いながらも、自分たちが、農民をどんなにひどく遇しているかということにすら気づかないという状態でした。

 

また、「百万人集会と四旧打破」のところで書いたように、天安門広場・百万人集会で、毛沢東や林彪から、近衛兵に対して、四旧打破(すべての旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣の破棄)や黒五類(地主、富農、反革命分子、悪質分子、右派分子)との階級闘争の鼓舞がなされ、北京で1000人を超える集団虐殺事件が起こったりしましたが、毛沢東は「火をつけたのは私で、火はもうしばらく燃やす必要がある」とこれも革命の一段階に過ぎないと平然としていたと言われます。

 

これに対して、鄧小平は、まず第一に、絶対に政治運動や政治闘争を煽ってはならず、混乱は断固として未然に最小限に抑え、安定の局面を確保すべきだとし、下からの民主化の要求に対しては、社会主義、共産党の指導、プロレタリア独裁、マルクス・レーニン主義と毛沢東思想という「四つの基本原則の堅持」ということで押し切るとしました。

 

文革の経験で立証されているように、動乱があれば前進はありえず、後退あるのみで、秩序があってこそ前進できるのだというのです。

しかし、争いは避けるが社会主義路線は断固として貫き、民主化(自由選挙)の要求には応じないというのです。

 

この基本方針のために、その後、悲惨な第二次天安門事件(学生たちの民主化要求を「愛国的民主運動」と評価した党の総書記、趙紫陽を、その任につけた鄧小平が追放し、学生たちのハンスト運動を武力で弾圧。その時、軍の無差別発砲により、3万人が殺害されたという報道もある。)が起こりました(天児慧『巨龍の胎動 毛沢東vs鄧小平』講談社、258~262頁、288~289頁参照)。

 

第二には、中国の経済的な現実を直視し、「できる所から、できる事からしっかりやる」。大衆の願望から出発するという事も重要。当地の条件に目を向けず、一つの方法だけを宣伝して、そのとおりにやれと要求してはならないと強調しました。

 

これは、かつて毛沢東が、「人民公社はすばらしい」「農業は大寨に、工業は大慶に学ぼう」などと、大衆の願望や各地の実情を無視して、画一主義的に自分の考えを押しつけたやり方を事実上否定したものであると言います。

 

さらに、この発想をさらに前向きに展開して、豊かになれる条件を持つ一部の人や地域が、他に先んじて豊かになろう(先豊起来)と勧めるもので、これを「先富論」と呼びます。

この勧めによって、もともと潜在的に経済発展を持っていた、あるいはそこにいくつかの条件を与えれば短期間で発展できる可能性のある地域、あるいは経済的な才覚や技術を持っていた個人などが、あからさまに積極的に経済活動を始めることが可能となりました。

 

この主張は、社会主義というものが、もともと一部の階級に富が集中することに対する批判から生まれたもので、平等主義の重視を特徴とし、特に毛沢東の主張にはその傾向が強くあります。

この批判に対して、鄧小平は、これは個人のやる気を引き出すための方策で、先に豊かになった地域が後進地域を支援、引っ張り、「共同富裕」を達成するための手段である。社会主義だけが両極分化を避け、共同富裕を実現できるのだと弁明しています(伊藤正著『鄧小平秘録下』産経新聞出版、199頁)。

 

第三に、鄧小平は、毛沢東の路線が内向きであったのに対し、当初から極めて積極的な対外開放路線を主張し、西側の先進技術、資金を大量に導入しなければならないと強調しました。

1979年の全人代会議では、香港や台湾に近く、海外華人の太いネットワークを持っている広東省と福建省に対外経済活動の大幅な自主権を与え、さらに広東の深圳、珠海を輸出特別区に指定。

さらに、1980年には、広東の汕頭、福建の廈門を合わせ、4つの経済特別区を設置し、対外経済交流、技術・資金導入を積極的に進めるため、関連法案の制定、各種インフラ整備など対外開放路線の環境整備を積極的に開始したと言われます。

 

鄧小平のこういうきめの細かい多方面にわたる心遣いがあったので、共産党一党独裁のもとにありながら、中国の全土の経済発展がたくましく進んでいるのでしょう。

 

矛盾論の批判と克服(18)

3.遊撃戦争の主導性、弾力性、計画性

 

遊撃戦争は攪乱、牽制、破壊、大衆工作など多くの活動にあたっては、兵力分散を原則とする。しかし、敵を消滅する任務につく時は「大きい力を集中して、敵の小さい部分を攻撃する」(『世界の名著78 孫文 毛沢東』中央バックス、414頁)ことが原則となると毛沢東は言います。

 

こういう速決戦を何回も展開して勝利を得ることによってのみ、味方の抗戦能力を強化する時間をかせぐと同時に、国際情勢の変化と敵の内部崩壊を促進するという戦略的持久の目的を達成して、戦略的反抗に転じ、侵略者を中国から駆逐することができると言うわけです。

 

この時、必要となるのが、まず遊撃戦争の主動性だといいます。主動性、主動権というのは「軍隊の行動の自由」で、受身ではなく攻めの立場に立つことで、日本帝国主義には、小さい国から派兵しているために、兵力の不足と外国での作戦という基本的弱点がある。それに加えて、指揮上の誤りという三つの弱点を衝くことで中国の遊撃隊は主動権を握ることができるというのです。

 

遊撃隊の弱くて小さいという点ですら、かえって敵の後方で神出鬼没に活動するということで生かせる。こうした自由は巨大な正規軍にはなく、遊撃隊であればこその持ち味だというわけです。

主導権というものは、敵と味方の双方についての正確な状況判断とそれに基づく正しい軍事的・政治的処理から生まれる。受身の立場からの脱出は「移動する」ことで、移動がたやすいのが遊撃隊の特徴だと毛沢東は言うのです。

 

次に必要な弾力性とは主動性の具体的な現れを言い、弾力的に兵力を使用することが、正規戦争以上に遊撃戦争には必要とされる。遊撃戦争の特徴に基づいて、任務、敵情、地形、住民などの条件に応じて兵力の使用を、分散的用兵、集中的用兵、兵力の転進というように弾力的に変えるべきだといいます。

遊撃隊を使用するにあたっては、指導者は、漁師が網をうつように、ひろげることも、たぐりよせることもできなければならない。たぐりよせるときは手綱をしっかりとつかんでいなければならないように、部隊を使用する時は、通信と連絡を保つと共に、かなりの主力を手中にとどめておかなければならない。

 

また、漁をする時、常に場所を変えなければならないように、兵力を分散、集中、移動という三つの方法に従って弾力的に使用の仕方を変える必要がある。(毛沢東はここでどういう時にどんな具合に分散、集中、移動(転進)させるかということについてきめ細かくコメントしています。)

 

最後に、計画性について。行動を起こす時には、あらかじめ、できるだけ厳密な計画を立てておかなければならないとして、何をどのように計画しなければならないかということについて、これまた細かくコメントしています。

 

そこにおいて、防御戦の中で侵攻戦を、持久戦の中で速決戦を、内戦作戦(包囲、挟撃される位置にあっての作戦)の中で外線作戦(包囲、挟撃の陣形をととのえるときの作戦)を実行するというように、常に正反対のものを前提として作戦が組まれなければならないことが強調されています。

 

4.戦争に勝つ秘策と経済を発展させる論理との根本的差異

 

これらの記述を見ると、毛沢東がどういうことを「矛盾」と考えていたかということが分かります。

 

毛沢東がいう通り、確かに、戦争とは「できるだけ自己の力を保存し、敵の力を消滅するかということで、敵もやはり自己(こちら側から見れば敵)の力を保存し、敵(こちら側から見れば自己)の力を消滅」させようとしている。

したがって、両者の「目的」は絶対に相容れない。したがって、戦争の場合には、確かに味方と敵の行動は常に「矛盾」しており、「矛盾の普遍性」が見られると言ってよいでしょう。

唯物弁証法は、すべての現象をこの戦争と同一視する一面的な世界観だといえます。

 

毛沢東のこの「抗日遊撃戦争」の理論は、実に精密、的確であり、その点からして、こと戦争に関する限り、毛は天才的な手腕を持っていたということが分かります。

実際、毛沢東は第二次世界大戦からわずか四年の間に共産党の遊撃隊をみごとに使いこなして、蒋介石の軍隊を中国の大陸から台湾に追い出し、1949年10月1日には中華人民共和国の建国を宣言するというめざましい成果を収めました。

 

しかし、経済面の改革――大躍進運動からプロレタリア文化大革命に至る一連の過程は大失敗だったと言わざるをえず、増産どころか2700万人(研究者によっては4000万人という者もいる)にも及ぶ大量の餓死者や栄養失調による病死者を出しました。

これは、「矛盾の普遍性」を前提として階級闘争を行うという唯物弁証法の捉え方が根本から誤っていたことを証明するものだと言わなければなりません。

 

経済面の改革は、毛沢東のように、「矛盾」を前提とするのではなく、逆に「矛盾の全廃」、すなわち、だれもが幸福を満喫できるような共通目的を立て、その目的に向かって、闘争ではなく全員が協力し合うように励ますべきだったのです。

すなわち、「統一思想」が主張するように、全国民が真の愛のもとに、互いに人のために尽くし合うという、神の人間創造の目的に向かって経済活動を推し進めていくようにすれば、全国民の目的が一致するので、矛盾はなくなるはずなのです。

 

このように、戦争の場合には、自分の目的と敵の目的とが対立するので、「矛盾の普遍性」ということがいえますが、経済活動の場合はそうではない。

この道理が、毛沢東のようにすべてを理屈だけで割り切ろうとはせず、現実に即して柔軟に対処しようとする鄧小平には分かっていたようです。この点について、現在の中華人民共和国を築き上げたこの二人の捉え方にはどういう違いがあったのか。

その点を次に追求して見ることにしましょう。

 

矛盾論の批判と克服(17)

(i)毛沢東の死と四人組の逮捕

 

その後間もなく、1976年9月9日に毛沢東が亡くなり、林彪の死後、林に代わって国防相となった老幹部の一人、葉剣英に、10月4日、「事態は切迫しています。一刻も早くご下命を」という電話が入ります。何事かと聞き返すと、それは海軍司令官の一人からで、「四人組」の逮捕を求めるものでした。

 

彼は、四人組から追い落とし工作の標的にされており、当時、79歳であった葉剣英自身も、かつて急進派から失脚させられる苦痛を味わっていました。そこで、葉は四人組の逮捕を「国慶節(10月1日)から10日間」と定め、直ちに華国鋒を訪れ、煮え切らない華に、「直ちに四害(四人組)を取り除こう」と耳打ちし、「決行日は6日ないし7日としよう」と提案。

 

その足で党や政府の重要機関が密集している中南海の執務室でまかせていた汪東興から最終的な準備状況を聞き、決行日を翌々日の「6日午後8時」と定めました。

 

まず、午後8時30分に行動組3人が、江青の自宅に入って「華国鋒総理があなたを隔離審査をする党中央決定を指示した」と言って逮捕。残りの張春橋、王洪水、姚文元は外界と隔絶された懐仁堂の広間に集まって会議をするという情報をつかんだので、そこに午後7時55分、華国鋒と葉剣英自身が広間に座り、汪東興ら行動組が屏風の陰に隠れて待ち受け、まず入って来た張春橋を無抵抗のまま逮捕。

 

次に、到着した王洪水は行動組の制止を振り切って約5メートル先の葉剣英に飛びかかったが、汪東興が小銃を構え、行動組の一人が王を組み伏せて手錠をかけ、姚文元は到着が遅れ、8時15分に「逮捕は自宅でするか」と汪東興が考えていた時、専用車で乗りつけたので、室外で逮捕しました。こうしてわずか約1時間半で四人組はすべて捕らえられたわけです(産経新聞取材班『毛沢東秘録上』産経新聞ニュースサービス、14-34頁)。

 

他方、汪東興が中央警衛団の張耀祠団長らに逮捕の作戦を伝えると共に、王洪水、張春橋、姚文元に6日午後8時から中南海で政治局常務委員会を開くから出席するようにと通知を出し、午後7時過ぎ、華国鋒、葉剣英がソファに座り、汪が屏風の陰に身を潜めていたという記述もあります(伊藤正著『鄧小平秘録下』産経新聞出版、38-41頁)。

 

通知を出し、それに従って出席したところを捕らえたという方が自然であり、この方が事実かもしれません。

 

その後、午後10時半(あるいは11時)から四人組逮捕についての報告と、華国鋒総理を党中央主席、党中央軍事委主席とし、毛沢東と同様、政治・党・軍事の最高指導者に決定したとあります。

 

ただし華国鋒は清廉潔白な人格の持ち主ではあっても、毛沢東時代の政策、路線を根本から見直し、新しい繁栄の時代を創始する見識と実力を備えているのは鄧小平だけだと葉剣英はにらみ、四人組逮捕後の激務が一段落したところで、息子に車で鄧小平を迎えさせ、五泉山の別邸にまで連れ出しました。

 

では、鄧小平の生き方は毛沢東とどこが違っていたか。それは毛沢東の矛盾観が実際に役立ったと思われる「抗日遊撃戦争の戦略問題」を検討した後で、比較してみることにしましょう。

 

 

四、矛盾の成立根拠の解明

 

さて、毛沢東は「矛盾論」を書いた1937年8月のすぐ後、1938年5月に「抗日遊撃戦争の戦略問題」(『世界の名著78 孫文 毛沢東』中央バックス407-445頁)を書いています。

 

この後著においては、毛沢東の矛盾観が弊害だらけの空理空論ではなく、非常に現実的な戦略理論となっています。

そこで、この「戦略問題」の理論構成を見ることによって、「矛盾」という捉え方が、どういう場合には現実で役に立ち、どういう場合には全く非現実的でその信奉者を苦しめることにしかならないかを検討してみることにしましょう。

 

1.戦略と戦術

 

毛沢東はまず「抗日戦争においては、正規戦争が主要であり、遊撃戦争は補助的である。………とすれば、遊撃戦争では、戦術が問題になるだけなのに、なぜ戦略問題を提起するのであろうか」『世界の名著78 孫文 毛沢東』中央バックス、409頁)と問題を投げかけています。

 

広辞苑を見ると、戦術とは「一個の戦闘における戦闘力の使用法、一般に戦略に従属」。転じて「ある目的を達成するための方法」とあります。それに対して、戦略とは「各種の戦闘を総合し、戦争を全局的に運用する方法」だと説明しています。

 

すなわち、ここで述べられているのは、戦術とは「一個の戦闘」に対応するものであるのに対し、戦略とは「各種の戦闘を総合」するものである。遊撃戦争とは「一個の戦闘」を意味するものなのに、どうして「いくつもの戦闘」の総合について考えなければならないのかと毛沢東は問いを投げかけているわけです。

 

ここでまず注意すべきことは、広辞苑の戦術の説明に「ある目的を達成するための方法」と、ここに「目的」という言葉が使われているということです。矛盾という概念はこの「目的」ということを度外視しては成り立たないのではないでしょうか。すなわち、ある目的を達成しようとしているのに、その目的の達成が難しくなるような条件が生じて来る。あるいは、その目的とは別の目的を達成しようとする動きが生じて来る。こういう場合にだけ「矛盾」という問題が発生して来るのではないでしょうか。

 

毛沢東は、この論文が書かれた1938年5月という時点において、中国は「大きくて弱い国」、それに対して、それを攻める日本は「小さくて強い国」だと言っています。敵(日本)は非常に広い地域を占領しているが、その兵は小さい国から来ているので兵力が不足している。そのため中国の遊撃軍は「内線」(敵に囲まれるような陣形)において正規軍の作戦に呼応するのではなく、「外線」(敵を囲むような陣形)において単独で作戦をおこなうようになっている。そのため正規軍とどのように呼応して動くかという戦略的な観点が必要になるのだというわけです。

 

2.戦争の基本原則――自己を保存し、敵を消滅させること

 

次に毛沢東は、すべての軍事行動の基本原則は、できるだけ自己の力を保存し、敵の力を消滅させることだと言い、この軍事行動の基本原則が、日本帝国主義を駆逐し、独力、自由、幸福の新中国を建設するという政治原則と結び着いていると言っています。

 

ここで、「矛盾論」では一度も出て来なかった「幸福」という概念が登場して来ます。

 

さて、戦争では勇敢に「犠牲となれ」といいます。この「犠牲となれ」というは、一見、「自己を保存する」ということと矛盾するようであるが、敵を消滅するためにも、自己を保存するためにも、犠牲が必要となるので、何ら矛盾しない。しかし、このように、「犠牲」ということは「自己保存」と「敵の消滅」のために必要となるものなので、その点、取り違いをしないようにと毛沢東は警告します。