矛盾論の批判と克服(4)
3.矛盾の普遍性をめぐって
毛沢東はマルクス主義の創始者、継承者のマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンが「唯物弁証法」を社会と自然の多方面に応用して大成功したと言い、その理論の基本である「矛盾の普遍性」は、今や多くの人の承認するところだと豪語しています。しかし果たして毛沢東がいうように、矛盾がすべての事物の中に遍在しているといえるでしょうか。
毛沢東はこの矛盾の遍在性ということについて、
①矛盾がすべての事物の発展過程に存在する
②個々の事物の発展過程に、始めから終りまで矛盾の運動が存在している
という二つのことを証明して見せようとします。
しかし、生物が精子と卵子の結合から始まって成体に達するまでの成長の過程の一体どこに「矛盾の運動」などというものがあるでしょうか。
精子と卵子のうちには初めから信じがたいまでに整然と配列された核酸の対(アデニンとチミン、グアニンとシトシン)の連鎖――DNAがmRNA(DNAのチミンの代りにウラシル)に転写され、最後にそれが20種のアミノ酸に翻訳されるという手順でアミノ酸の集積である特定のタンパク質に達し、それを土台としてそこに容姿についての情報などが加わって成体に達するということが現代の生物学で解明されて来ています。
この一体どこに矛盾などというものがあるでしょう。もし矛盾があったら、すべての生物はふた目と見られぬお化けになってしまわざるをえないのです。
エンゲルスは「運動そのものが矛盾である」と言っているということですが、ノイローゼにでもなった人以外は、常に何かの目的を立て、それに向かって行動しています。一見、何の目的もなさそうな散歩でも、気晴らしとか健康のためとか、何か目的のあるのが普通です。ただ一つの目的に向かう運動が矛盾だということはできません。
それとも、運動とはあるところに「いる」と共に「いない」ことだから、これは矛盾だとでもいうのでしょうか。運動している人ははっきり「そこにとどまっている」ことを望まず、「何かがしたくて」動いているのですから、「いる」ことと「いない」ことの葛藤で苦しんでいるわけではありません。人間でもほかの生物でも、運動をひき起こす筋肉を持っているのですから、今いる場所にとどまることを望まず、その場所からいなくなることを選択しているわけで、「運動」は何の矛盾でもありません。「いる」と共に「いない」のではなく、単純に前に「いた」場所に「いない」のです。「いる」と共に「いない」などというのは、何とかして矛盾の普遍性を信じ込ませようとする浅はかなトリックだと言わなければなりません。
エンゲルスは「単純な機械的移動自体が、矛盾をふくんでいるとすれば、物質のもっと高度な運動形態、わけても有機的生命とその発展とはなおさらそうである。生命は、なによりもまず、生物がおのおのの瞬間にそれ自身でありながら、しかもまたなにか別のものでもある、という点にこそ存在する……。」(『世界の名著78 孫文 毛沢東』中央公論社、373~374頁)と言っています。
エンゲルスは、原子や分子の運動も矛盾の運動だと捉え、「単純な機械的移動」であるといいます。しかし、後で反論しますが、陽子と電子の関係は相対関係(相対物)であって対立関係(対立物)ではありません。
また、生物も物質と見て、その運動も「物質のもっとも高度な運動形態」と捉えています。しかし、その生物の「成長の過程」の一体どこに矛盾の運動があるのでしょうか。
エンゲルスは「生物がおのおのの瞬間にそれ自身でありながら、しかもまたなにか別のものでもある」(同、373頁)と言い、これを矛盾だと定式化しようとしますが、この動きは時間と三次元の空間の座標で一義的に表示することができ、そのどこにも矛盾はありません。
毛沢東は、「唯物弁証法は、外部的原因を変化の条件、内部的原因を変化の根拠であると考え、外部的原因は内部的原因を通じて作用するものと考える。鶏の卵は適当な温度を与えられることによって鶏に変化する」(『実践論 矛盾論』青木書店、41頁)と言います。
この例で言えば、外部的原因は温度、内部的原因は卵ですが、その外部的原因の温度だけでは鶏は生じません。鶏が生じるためには、卵がなければならず、その卵は有精卵でなければならず、無精卵であってはなりません。有精卵は大部分、殻と滋養(白身と黄身)から成り、無精卵との違いは、そこにごく僅かの胚子が含まれているという点だけです。そのため、一見、胚子は全く無力なもののように見えます。
しかし、卵(内部的原因)を適当な温度(外部的原因)で熱すると、この全体の中でごく少量に見えた胚子が驚くほどの力を発揮して、自分以外のものを呑み尽くしてヒヨコとなり、殻を破って外に出て来ます。その推移を、ただ見掛けだけから見ると、あたかも主従関係が逆転するかのように見えます。
そこで毛沢東はこの錯覚を利用して、物質の運動のうちには矛盾が遍在し、この矛盾の原理――すべてのものを成り立たしめている対立物の支配と非支配の関係の逆転という法則――に身をゆだねることによって勝利できるという信念に基づいて革命を成功させようとしたわけです。
しかし、すでに述べたように、鶏のうちには、卵の段階からその性質を決定する情報の原型(DNA)が備わっているのです。このような情報の原型が初めに与えられていたからこそ、その原型どおりのヒヨコの具体的な性質が、主体(DNA)と対象(それ以外の卵の全体)の授受作用によって成長と共に現れるのです。この卵の成長過程において、その内部に対立物の闘争は見られません。
次の文章は、人間の行動を考察したものです。
「弁証法的唯物論の核心は闘争なのです。闘争して栄えることがありますか。そのような論理が正しいですか。男性と女性が愛することが闘争ですか。男性と女性は愛によって一つになるのであって、闘争によって一つになりますか。」(文鮮明著『神様の摂理から見た南北統一』616頁)
「弁証法、それはこっけいなものです。二つが対立して、戦って一つになるというのです。それは、女性と男性が毎日のようにけんかして、あさっての朝にはもっと発展するという論法です。そのようなことがあり得ますか。とんでもないことです。戦えば互いに損害を受け、後退するようになるのです。」(同、617頁)。
「すべてのものは相対的に存在しています。相対が定められれば目的観は自動的に出てきます。その目的は、二つを合わせたものよりももっと大きい価値をもつのです。ですから二つが合わさることは互いに矛盾対立して合わさるのではなく、共同の目的達成のために互いに合わさるのです。」(同、610頁)
ところで、毛沢東は、エンゲルスが「運動そのものが矛盾である」と述べるその矛盾の普遍性を読者に信じ込ませようとして、「この見方は正しいであろうか。正しい」(同、373頁)と断言しています。「矛盾をふくまない事物などはありえず、矛盾がなければ、世界はない」(同)というのです。
だから社会の発展法則(矛盾)に従って階級闘争をしなければならないとし、読者を闘争に巻き込もうとしているのです。
「共産主義の理念は、弁証法による闘争を主張します。彼らは、闘争過程が発展の要因だといっています。ここには平和はありません」(文鮮明著『南北統一と世界平和』172頁)。