矛盾論の批判と克服(6)

(f)階級闘争

 

最後に階級闘争――これは例えば、歴史上に現れた奴隷制、封建制、資本主義社会において、選挙によって選ばれる民主的政府によって管理されるのでなければ、確かに、奴隷主と奴隷、武士と一般庶民、資本家と労働者の利害が一致しないので、その「矛盾」(利害)の解釈をめぐって闘争が起こるという歴史的事実があるので、この場合だけは確かに「矛盾」があったということができます。

 

この矛盾は人間、特に支配者の自己中心の排他的な欲望によって生じたものです。人間以外の生物、特に動物も生き延びる必要から確かに他の生物を捕らえて食べます。

 

しかし、人間以外の生物は自分にとって必要な滋養を取るだけで、人間のように他の生物を殺すこと自体を楽しんだり、自分のなわばりを必要以上に拡大したりはしません。したがって、人間以外の生物の間に矛盾があるとはいえても、それは弱肉強食であり、弁証法的な矛盾や発展ではなく、それは限られたものであり、容易に管理することができます。

 

人間と人間のからみ合いである社会にのみ、特に意識して取り組まなければ共倒れとなる深刻な矛盾があるのです。この点をはっきりさせることなく、この地球上がすべて矛盾に満ちみちているかのようにレーニンや毛沢東はいうので、問題が生じて来るわけです。

 

 

さて、統一思想では、レーニンが「矛盾」の例として挙げた、「数学では+と-、微分と積分。力学では、作用と反作用。物理学では、陽電気と陰電気。化学では、原子の化合と分解」等、これらの関係を「授受作用」という大変適切な名称で呼び、このような実体や概念の対のことを「二性性相」と呼びます。

 

二性性相は、「主体」と「対象」の相対性からなり、この主体と対象には大別して「性相」(精神的な機能)と「形状」(物質的な機能)という相対性と、「陽性」(積極的な機能)と「陰性」(消極的な機能)という相対性という二種類のものがあり、+と-はそのうち陽性と陰性の二性性相にあたります。

 

この陽性と陰性はそのまま放置しておいたのでは何の働きもする道理がなく、両者の関係――授受作用を引き起こすためには、必ず何らかの「目的」を設定する必要があります。この目的のもとに陽性と陰性の授受作用が生じ、その結果、陽性と陰性の単なる相対関係を示す「合性体」が何らかの具体的な構成物――「新生体」に移行します。かくして生ずる目的、主体(陽性)と対象(陰性)、新生体の関係のことを「正分合作用」と呼びます(第一図参照)。

 

6の図1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以前に述べた事例でいえば、目的とは会合の参加者の数を知るということ、陽性は会員の総数、陰性は欠席者の数、新生体はその会合への参加者の数です。

 

ここにおいて、+と-は矛盾を引き起こすのではなく、特定の目的を実現するために整然たる秩序のもとに、やりとりの生産的関係(授受作用)を結ぶのです。さらにそういう目的を立てるのはそれによって「愛を通じて喜ぼうとする衝動」がその人間にあるからだと見て、統一思想はそのような衝動のことを「心情」と呼びます。

 

このように、統一思想は本来の健全な人間は常に心情(愛)を根本動機として、陽性と陰性、あるいは性相(心)と形状(体)の間の授受作用を通じて時々刻々、新しい質の実体(新生体)を生み出すことによって幸せに暮らして行くようにできているのだと見ます。

 

しかし、今の人間は常にそのような状態を続けているということはできません。それは人間の最初の先祖(始祖)が、相手(神と世人)のためにのみ生き続けることができず、自己中心の生き方をするようになり、その性質が代々遺伝によって受け継がれるようになったからだというのです。お互いが自己中心に生きれば、当然にも他人と利害が対立するようになります。これがマルクス主義者たちがいう「矛盾」ということなのだと統一思想は捉えます。

このように本来の状態とはずれてしまっている性質のことを統一思想は「堕落性」と呼びます。

 

毛沢東のいう「矛盾の普遍性」というのはこの「堕落性」のことでしょう。この堕落性の本質と由来(どこからそういう性質が生じて来たかということ)については後でくわしく説明することにします。この「堕落性」、すなわち、四位基台の故障は確かに今の人間に普遍的に見られるものだと言えますが、それは全体としての人間と、その人間の織りなす社会の全体構造に関するものです。

 



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