矛盾論の批判と克服(12)

(b)社会主義教育運動と四清運動

 

 さて、毛沢東は経済面では大躍進運動を行ない、これがうまく行かなかったために、その点について批判を加えた軍のトップ、彭德懐を罷免して林彪に切り替えました。他方、軍事面では、ソ連との関係悪化もあって、四方を敵に囲まれた形の中国の防衛のため、1950年代後半以降、「国民皆兵」を旗印に、ほぼすべての政府機関、企業、工場、学校で民兵組織をつくりました。

 この双方を円滑に発展させるために、自らの唯物弁証法の思想に基づく思想教育の徹底化と、それに基づく階級闘争の徹底化が必要だ。こう「存在が意識を規定する」という理論に従って毛沢東は考えました。

 

 これが1960年前半から毛が力を注いだ社会主義教育運動(社教運動)と、それに基づく四清運動(政治・思想・組織・経済の点検)です。社教運動のテキストには、林彪が編集した五十億冊にのぼると言われる『毛沢東語録』が用いられ、四清運動には都市の職場や農村に工作隊が派遣され、地主、富農、資本家のような「悪い階級」の人々に対して批判闘争が行なわれました。具体的には、農村の人民公社では「四清(賃金点数、帳簿、財産、在庫の点検)」、都市部においては「五反(反汚職、反横領、反浪費、反官僚主義、反投機)という目標が立てられ、それが相手の心の内面などいっさい考慮することなく、「闘争」という形で押しつけられたのです。

 

 さて、毛沢東が定めたこのような基本方針に対して、軍事面は、現実がどうであろうと一切意に介さず、ひたすら毛沢東思想が正しいとして盲進する林彪が最高の責任者となったので問題はありませんでしたが、政治・経済面は毛沢東思想を原則として遵法しつつも同時に現実をも重視する国家主席の劉少奇(毛は大躍進政策の不評から彼を政治の中心に立てざるをえませんでした)や党総書記の鄧小平などの実務派が握っています。

 

彼らは現地を見て歩き、例えば劉少奇は、食糧自作が一切認められない公共食堂制に対する農民の不満が非常に強いのを見て、公共食堂がなくなれば社会主義や人民公社がなくなってしまうわけではないと見て、公共食堂の解散を受け容れました。同様に、個人に耕作地を割り当てていく農村自留地や、そこでとれた作物を売買する自由市場、さらには上記のごとく農家が個別に生産を請け負う個別請負なども認めていこうとする方向に実務派は傾いて行ったのです。

 

唯物弁証法を不動の真理だと盲信する毛沢東は、このような実務派の動きによって、社会主義体制が崩壊し、「資本主義」「修正主義」に逆もどりしてしまうのではないかと内心、非常な危機感を抱くようになりました。

 

しかし、毛も彼らを党の中心に立てた以上、一般大衆の評価という大義名分なしには、彼の信条からしても、こうした実務派を解任することができません。そのため青年たちを動かして、下からの「階級闘争」によって、「社会主義」を死守する必要があるとひそかに考えるようになりました。この構想がやがて「プロレタリア文化大革命」となって現実化されて来るのです。

 

(c)「海端罷官」の批判

 

 このような情勢下にあって1965年11月、再び廬山会議を想起させるような事件が発生します。

 

 それは首都北京の副市長で明代史の専門家でもある呉晗が1960年に書いた京劇の脚本――『海瑞罷官』が、後に毛沢東の妻、江青と組んで「四人組」を形成するようになる姚文元(『解放日報』編集委員)によって1965年11月に批判を受けるようになった事件です。

 

 この「海瑞」とは明朝の嘉靖帝時代の高官で、皇帝が民をかえりみないことをいさめたために怒りを買い、罷免、投獄された人物で、姚文元は、呉晗はこの脚本で封建時代の役人を肯定的に描くことによって、「地主階級国家を美化し、革命を不要とする階級調和論を宣伝した」と評し、これはプロレタリア独裁と社会主義に反対する「毒草」だと批判したのです。

 

 毛沢東自身は6年前に上海で、この劇を見た時、皇帝をいさめる場面に感銘を受け、「海瑞は皇帝をののしったが、それは忠心からきたものだ。忠誠にして剛直、……(こういう)海瑞精神を提唱しなければならない」と真実を語ることをためらう党内の風潮を批判していました。

 

 しかし、毛は江青の指摘で、彼女が書かせた姚文元のこの論文を見、皇帝は自分、海瑞は彭徳懐で、彭徳懐の意見をいれずに解任した自分へのあてつけに書かれたとも受け取られる。そこで『海瑞罷官』は反党分子の彭徳懐を擁護するものだと批判することによって実権派に対する政治闘争を仕掛けることができると考えるようになったのです。

 

呉晗はまた鄧拓(北京市党委員会書記)や廖沫沙(北京市党委統一戦線部長)らと組んで、『三家村札記』という大躍進時代の現象を巧妙に風刺するエッセイを執筆しており、北京市長、彭真と考えが一致していましたが、そのため彭真は自分も標的の一人となっていることに気づき、翌1966年2月に彼ら「五人小組」を招集して、「実事求是(事実に基づいて真理を追究する)を堅持し、独断と権勢をもって人を押さえ込んではならない」と、どこまでも問題を学術論争の枠内に押しとどめるべきだとする「二月テーゼ」をまとめました。

 

これに対して1966年5月、毛沢東の影響のもとで、中国共産党中央委員会の通知(五・一六通知)が採択され、二月テーゼは取り消されます。さらに同じ月、彭真は、羅瑞郷、陸定一、楊商昆などの有力政治家らと共に、「反党集団」とされ、職務を解任されてしまいました。また鄧拓は54歳の若さで自殺しています。この五・一六通知ではじめて、「プロレタリア文化大革命」という表現が用いられるようになり、各界の「ブルジョア階級の代表者」が糾弾されるようになるわけです。

 

 この五・一六通知に基づいて、中央文化革命小組が新設され、江青、張春橋、姚文元、さらにその後、王洪文が加わって、毛沢東擁護の尖兵――四人組が活躍するようになります。

 

(d)プロレタリア文化大革命への移行

 

 ひるがえって、毛沢東は共産革命の忠心と見ていたソ連が「修正主義」に移行したことを踏まえて、1964年7月14日の人民日報で、社会主義内部の階級闘争は「百年から数百年かけなければ成功しない」と述べています。これは毛沢東のものの考え方の特徴を如実に示しているように思われます。

 

 毛はその「成功」まで人間の一生を超えるほどの時間がかかると推定しつつ、それほど困難なのは唯物弁証法の人間、社会観に問題があるからだとは考えず、一生、二生をかけてでもその目標を達成しなければならぬと思い込む。2700万人もの餓死者が出てもなおそれが正しい政治・経済政策だと信じ続ける。これほどの無反省の独断の産物が果たして真理だということができるでしょうか。

 

 こんな途方もない暴論を押し通して無理矢理「成功」に導くため、毛沢東は1966年5月、上述の五・一六通知の中で「すべての牛鬼蛇神(妖怪変化)を一掃せよ」との下知を全国に向かって飛ばしました。

 

 これと呼応して直ちに北京大学の学生大食堂に、北京大学と北京市の党委員会幹部を「君」呼ばわりで痛烈に批判する大学報(壁新聞)が5月25日に張り出されました。筆者は北京大学の女性講師で秀才として名の高い聶元梓。中央文革小組の顧問で、毛沢東の妻の江青と同郷の友――康生の妻の勧めで書いたのだと言われます。

 

 そこには、「集会や大字報は最良の大衆的で戦闘的な方法であるのに、君らはそれをさせないよう“指導”することによって、大衆的革命を弾圧している」などと批判されています。これは何よりも「闘争」を重んじた毛沢東の意を踏まえたものだといえましょう。

 



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