矛盾論の批判と克服(13)
その直後の1966年6月初めに、北京の清華中学の校内に、「われわれは紅色政権を防衛する衛兵である」という大字報が張り出されました。これが「紅衛兵」の産声です。その多くは学業成績も優秀な党幹部の子弟だったと言われます。彼らは毛神格化が強まる中で育ち、全く純真に「毛思想の絶対権威」を打ち立てようとして、階級闘争に打ち込んだわけです。
それに対して、南京では、大学や市の省工作隊の側も学生を動員するようになり、「紅旗戦闘隊」と呼ばれる紅衛兵組織を設立しました。それに対して毛沢東に忠誠を誓う紅衛兵組織の方は「紅色造反隊」と呼ばれ、これはおおむね毛沢東理論で革命的な出身成分だとされる労働者、貧農、下層中農、革命軍人、革命幹部の五つ――「紅五類」に属していました。(それに対して、地主、富農、反革命分子(旧国民党政権の関係者や資本家層)、悪質分子、右派分子(共産党への批判者など)は「黒五類」と呼ばれ、その出身者は「紅色造反隊」に加わることは難しく、「反革命分子」「悪質分子」「右派分子」「牛鬼蛇神」呼ばれ、造反隊によって家荒らし、吊し上げ、暴行などを受ける批判、闘争の対象となりました。)
もう一つ、紅色造反隊に加わりたいが出身成分が悪いために思うにまかせない者や、造反隊が味方を増やそうとして革命経験交流に誘うのに応じた中道左派――「八・二八革命経験交流会」(1966年8月28日に発足したことからこう名づけられた)があります。
この「紅色造反隊」「紅旗戦闘隊」「八・二八革命経験交流会」の区分については、董国強編『文革』築地書館、39~44頁。及び50頁の各派概略図参照。
なお、五・一六通知に基づいて新設された「中央文化革命小組」(これが後日、江青や『海瑞罷官』批判を書いた姚文元、張春橋、王洪文ら四人組の根城となる)が、共産党の機関誌、人民日報の主導権を握り、6月1日には、毛沢東の「すべての妖怪変化を一掃せよ」との趣旨を踏まえた社説、2日には聶元梓の大字報、さらに「ブルジョア階級の学者や権威を一掃しよう」など、文革を鼓舞する社説が五日連続で掲載されました。
その結果、学校や街が大混乱となったので、劉少奇はとりあえず党政治局拡大会議で、大字報は学内にのみ張る、デモ行進、大規模な糾弾集会禁止など「八ヶ条指示」を出し、工作隊を組織して鎮静化をはかり、さらに6月9日、鄧小平と共に杭州の毛沢東のもとに飛び、事態の収拾を願い出ました。しかし、毛は単に手を振って「乱れるにまかせたらいい」と言い放つだけでした。
二人が北京に戻ると、情勢は悪化する一方で、学校幹部や教師、右翼と見られた学生が糾弾集会に暴力的に引きずり出され、死亡したりする者まで出ました。そのため、党中央には犠牲者の家族から、「こんなことは封建社会にもなかった」などという憤激の手紙が大量に舞い込みました。
6月18日には、毛沢東の意向で反動として北京大学学長を解任された陸平をはじめ40数人の党幹部、教師、学生が急進的な学生たちに「黒幇」(黒い一味)としてつるし上げられ、「闘鬼台」「斬妖台」と名づけられた台の上で、顔に墨を塗られ、紙を巻いた三角帽子をかぶせられ、首に名前や“罪状”が書かれた看板を下げられるなどの無惨な仕打ちを受け、女性で衣服を引き裂かれる辱めを受けた者もいました。
騒ぎを知った本部の工作隊は、すぐに駆けつけてやめさせ、全校大会を開いて「むやみなつるし上げは革命運動を損なう」と非難し、劉少奇はこの事件の報告書に「処理は正確で、すばやかった。参考とするように」とのコメントをつけて、党中央の名で全国に流しました。
こうして、学校の党委員会に代って「秩序ある」文化大革命を指導しようとした工作組(紅旗戦闘隊)と、自分たちこそ毛沢東の文革を誠実に実行しようとしていると固く信じる紅色造反隊とが、互いに相手を「反革命」と非難し合うようになります。
そこに、農民の出で、祖父が中国共産党の抗日戦争戦士、父母も建国前からの党員である21歳の学生、蒯大富が、清華大学の構内で見ていた一枚の大字報に、「革命の主要問題は奪権である。いま権力は工作組の手中にある。この権力はわれわれを代表しているか。そうでなければ奪権せねばならない」と書きつけ、その日(6月21日)、劉少奇の妻、王光美が工作組の一員として精華大学に来、工作組は歓迎準備までしていたので大騒ぎとなり、2日続けて糾弾大会が開かれました。
それに対して、24日、附属中学(日本では高校までも含む)に「革命すなわち造反。毛沢東思想の魂は造反である。」という大字報が張り出されました。
このことを毛の妻、江青たちの「中央文革小組」が毛沢東に伝え、7月18日に北京に現れた毛沢東は、劉少奇らを呼んで、この工作隊の行為について、
「学生運動を鎮圧するのはだれか。(袁世凱の)北洋軍閥と(蒋介石の)国民党だけだ」と批判しました。
このことから毛沢東は、秩序ある批判、闘争は好まず、紅色造反隊がしたような徹底的に暴力的な闘争による「奪権」を奨励し、「造反有理(反乱には理がある)」(1939年の抗日戦争中の発言)であって、その点で、毛は劉少奇に反対していたということが分って来るのです。しかし、一体このような死者や自殺者まで出す残忍な批判、闘争が、果たして、闘争者、被害者のいずれにも、幸福をもたらすといえるのでしょうか。
さて、1966年6月8日、72歳となった毛沢東は、厳重な警備の中、乗用車で故郷の韶山の近く、滴水洞に党が一億元を投じて建てた別荘に行き、11日間滞在。7月16日には武漢で長江横断水泳大会に参加。人民日報は、毛が15キロを1時間5分で泳いだと報道。18日には北京に舞い戻り、劉少奇が組織した工作隊の派遣を上記の通り非難。24日から2日間、党政治常務委員会と中央文革小組を招集し、あれほどの惨事があったにもかかわらず、「工作組は運動を阻害し、悪い作用を及ぼす。すべて追放すべきだ」と発言します。
4日後の7月29日には、党中央は「北京市大学高専と中学の文化革命積極分子大会」を開き、鄧小平と周恩来はそれぞれ工作組を派遣した責任を認め、最後に立った劉少奇は、どのように文革を推し進めて行ったらよいのか分らないととまどいを見せました。この大会の終了間際に、毛沢東が突然、会場に現れ、感激の拍手と毛を賛美する勇壮な曲と歓声がホールにこだまし、力の限り万歳が叫ばれました。
8月1日からは、人民大会堂で第八期中央委員会第11回総会(八期11中総会)が開かれ、毛沢東は「司令部を砲撃せよ――私の大字報」という指令分を配らせます。そこには、「一部の指導者の同志は反動的資産階級の立場から文革をたたきつぶし、無産階級の士気をくじいて得意になっている」と書かれており、明らかな劉少奇「司令部」打倒宣言でした。
会場には、聶元梓や江青らの中央文革小組のメンバーも加わっており、劉少奇が政治報告をすると、毛は何度も厳しい調子で詰問しました。
4日にも、毛は政治局常務委拡大会議を招集し、劉少奇が「あの時期、主席は不在で、主な責任は私にあります」と自己批判すると、毛は声を荒げて、「お前は北京で独裁を敷いたのだ」と批判し、葉剣英(中央軍事委副主席)が、「我々は妖怪変化など恐れはしません」と劉をとりなそうとすると、毛は「妖怪変化は一座の中にいる」と言いました。
この毛のやり方から分ることは、毛沢東は整然たる平和的批判運動は好まず、階級敵とみなしたものを暴力で破滅させることしか考えておらず、その暴力に規制を加えることに全く反対であったこと。工作組を用いて批判運動に秩序を与えようとする劉少奇に対して、ひとかけらの愛情も信頼もなく、乱れるにまかせようとしない劉に、憎しみをしか感じなかったということです。
このようなやり方で、果たして万人を幸福に導くことができるのでしょうか。
12日には、毛は党中央機構の改組を提案し、劉少奇の党内序列を一気に二位から八位に落とし、毛を天才としてその言動のすべてをそのまま受け入れる林彪を六位から二位に引き上げました。中央文革小組のメンバーも、その時破格に地位が上げられています。
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