矛盾論の批判と克服(14)

e)百万人集会と四旧打破

 

ついで1966年8月18日には、天安門広場で文化大革命祝賀群衆大会が開かれました。

 

開幕は午前7時半。毛沢東は参加者を驚かせる効果を狙って、5時過ぎに早々と車に乗り込み、着いた時はまだ会場整備中でしたが、その時には広場に大学生や中学生(日本の中・高生に相当)を中心とする紅衛兵(紅色造反隊)が全土から続々と集結、その数は10数万人にもなっていました。

毛は天安門楼閣から要人専用エレベーターで地上へ降り、前触れもなく紅衛兵の前に姿を現し、声援を浴びました。彼らは手に手に毛語録を掲げ、大声で万歳を叫びながら毛沢東と握手を求めます。

 

やがて開幕となると、天安門上の毛沢東の周りには林彪や周恩来ら党と国家の最高首脳が居並び、そのうちに劉少奇もいましたが、劉は毛から「学生運動の鎮圧」を厳しく批判され、党内序列も二位から八位に落とされたことを、参加者はこの翌日公表された名簿から知るようになります。

 

開会宣言は「中央文革小組」組長、陳伯達が行い、続いて立った林彪は、紅衛兵を「文革の急先鋒」と位置づけ、旧来の思想、文化、習慣の破壊を呼びかけ、対照的に周恩来は「相互学習、相互支援をもとに革命経験の交流を行い、団結を強化してほしい」とおだやかに説きました。

劉少奇の失脚後、「火薬に火をつける林彪」に対し、「火消し役の周恩来」で、二人がバランスを取っていくようになるわけです。

 

翌19日には、北京市第二中学の紅衛兵によって、北京の街頭のいたるところに、「旧世界に宣戦する」と題した大字報が出され、林彪の呼びかけた「四旧打破」(すべての旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣をたたきつぶす)が高らかに宣言されました。しかし、その「打破」はとんでもない形で発揮されるようになります。

 

例えば、この大字報の宣戦布告がなされた当日、天安門広場南側にある有名な鴨料理店「全聚徳」が中学の紅衛兵に占拠され、「こんな高い料理は労働人民には不要だ」と叫び、人民の血と汗を搾取した象徴だとして、看板が引きずり降ろされ、代わりに「北京烤鴨店」と書かれたペンキ塗りの木製看板が掛けられました。

 

また、書画の名店「栄宝斎」が「資産階級のお嬢ちゃん、お坊ちゃん、奥様、だんな様、反動的学術権威に奉仕する店」だと断罪され、伝統のある看板が「人民美術出版部第二小売部」とすげ変えられます。

 

これらの店舗だけでなく、「旧世界」のイメージを、一新するためだとして、市内各所の施設や街路の看板にも張り紙をして名称が次々と変えられていきました。

 

ジーンズや長い髪、パーマなどもブルジョア的だとされ、人権までがブルジョア思想として切り捨てられます。

さらには、「赤は革命の象徴なのに赤信号で停止するのはおかしい」と言いだして、事故を多発させるという滑稽な事件も起こります。

 

世界的な作家で67歳になる老舎が、なぐられて頭から血を流し、力尽きて倒れると、態度が悪いと深夜まで傷めつけられ、翌朝傷だらけで帰宅し、苦痛のあまり入水自殺するという事件にまで至ったという惨劇もあります。

 

張連和(ちょう・れんわ)の手記によれば、

「8月31日夜、県党委から『四類分子』(地主、富農、反革命分子、悪質分子)とその家族が虐殺されているとの一報が農村工作部に入り、県党委幹部らと合流して現場に急行した。

村内の一軒の民家に『四類分子』が連行され、そこが“処刑場”と化していた。

目に入ってきたのはおびただしい血と散乱する死体だけではなかった。その隣には、鮮血に染まった村民が縄で縛り上げられていた。尋問する側の村民は、何本ものくぎが付いた革製のむちのようなものやこん棒を手にしている。これで『四類分子』を殴りつけ、土地の所有権証書や武器などの隠し場所を自白するように迫っていたのだ。

別の部屋では、両手を縛り上げられた70過ぎの老女に身を寄せる14、5歳の男の子が、鉄棒を持った若い男に尋問されていた。『早く言え。お前らの『変天帳』(財産目録)はどこにあるんだ』

………

『分らない』と子どもが言うと、男は容赦なく子どもの手を鉄棒でたたいた。子どもの左手の薬指と小指がちぎれ、たちまち鮮血が噴き出した。

いくつもの死体を中庭で手押し車に積んでいる男もいた。息絶え絶えながらまだ生きている人もいたが、男はシャベルで一撃を加え、絶命させて外に運び出した。」(『毛沢東秘録上』扶桑社、185-186頁)

 

この手記が事実だとすれば、これはまさに最も悪質な連続殺人事件ではないでしょうか。

実際、同書には、「8月27日から9月1日にかけ、大興県の各地で22世帯の80歳から生後38日の乳飲み子まで325人が犠牲となった」、「文革後に公表された数字によると、北京市だけで8月24日から9月1日までの間、撲殺された人は1529人にのぼる」(同、187頁)とあります。

 

いったい、これでも毛沢東は「乱れるにまかせればよい」と工作隊の派遣や警察の取り締まりを禁じ続けようとするのでしょうか。

実際、国務院公安部長の謝富治(しゃ・ふじ)は、北京市公安局拡大会議で「だれかを殴り殺すことに賛成はしない。だが、人々が悪人を心底憎んでいるならわれわれは制止しきれないから、無理やり止めることはしない」(186頁)と言っています。

 

それでは、相手が「悪人」で、だれかがその悪人を「心底憎んでいる」のなら、「制止きれない」として警察は手を出さないというのでしょうか。もしそうなら、ほとんどの殺人は無罪だということになってしまうでしょう。しかも、ここで「悪人」というのは、毛沢東・林彪の「四類分子」というイデオロギーによってそう定義されているだけのことに過ぎないのです。

 

また、謝富治は「警察は紅衛兵の側に立ち、情報を提供しなければならない」(186頁)とさえ語っています。ここで「情報」というのは、だれが「四類分子」かということについての情報です。

 

すなわち、公安・警察は、殺人にまで発展する「階級闘争」を文闘の範囲にとどめようと規制するどころか、これは殺してもかまわない四類分子だという情報を紅衛兵たちに与えさえしていたというのです。そのため、紅衛兵は警察のさし出すリストに従って、安全が保証された中で何の罪悪感もなく、悪くすれば死に至るお仕置きを平気でしていたわけです。そのために一週間で1500人以上が撲殺されるというような、法治国家では到底考えられない無法の惨劇が生じたわけです。

 

こういう惨劇を前にしても、毛沢東は反省するどころか、10月1日の祝賀大会で、天安門楼閣上に招かれた人民解放軍総医院の李宗仁に、休憩室で茶を勧めながら、こう語ったと言われます。

「大衆が動き出したようだ。………火をつけたのは私で、火はもうしばらく燃やす必要がある。だが、火をつけても災いは容易に消せる………祖国はかつてより強大になったが、十分じゃない。再建設にはあと少なくとも2、30年をかけ、ようやく真に強大になるんだ」(192頁)。

 

毛沢東は、こういう無法な大量虐殺をさらに、2、30年も続けなければならないと言うのです。こういうことを個別的に実践し認識するのが「矛盾の特殊性」の認識だというのであれば、これはまさしく大量殺人の哲学だと言うほかありません。

 



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