矛盾論の批判と克服(16)
(g)林彪と周恩来の死
その後、毛沢東は林彪の権力が著しく強大化されるのを見て警戒するようになり、葉剣英など非林彪系の軍人6人を政治局入りさせたのを見て、林彪は自分も劉少奇の二の舞になると恐れたのか、妻の葉群、長男の林立果や配下の諸将と共に、毛沢東を暗殺して自力の権力を万全のものにしようとして失敗し、1971年9月13日、一味と共に飛行機で逃亡しようとして墜落死します。
その後、中国共産党の草創期から50年以上にわたる毛の同志、周恩来が党と国家の日常工作を一手に担うようになり、毛沢東は「批林整風」(林彪を批判し、思想を整とんする)、あるいは「批林批孔」(極右の反動として孔子を取り上げる)の運動を起こすようになります。江青は「批孔」の名を借りて周恩来の追い落としをはかるようになったと言われます。
その後、1976年1月8日に周恩来が死去。四人組の頭目――張春橋は周の跡を継いで総理代行となることを期待していましたが、毛沢東は甥の毛遠新に張をどう思うかと問い、遠新が「陰陽怪奇」(偏屈でえたいが知れない)と答え、「では華国鋒はどうか」と聞くと「忠厚老実」(忠実で情に厚く実直)と答えるのを聞いて、「いや、重厚少文(まじめで重みがあるが味がない)だ」と言いながら、周恩来の跡をまかせるには無難だと思い、華国鋒を国務員総理代行とし、実力が必要な外交は、1969年から下放され、周恩来の懸命の尽力で1973年から復帰した鄧小平にまかせることにしたと言われます。(さらに、影響力の強い葉剣英ら老幹部とうまくやっていけるのも華国鋒だと見たようです。)
さて、周恩来は毛沢東の観念的、非現実的な政治・経済の運営に対して、批判は加えずに、愛に満ちた心配りでその欠陥に終生、全力で対処し続けました。
「中国人にとって、毛沢東は厳父であり、周恩来は慈母だった」と言われます。それだけに、周恩来の死は民衆にとって大きなショックでした。そのあとを受け継いだのが華国鋒や鄧小平でしたが、この周恩来の思いやり路線は、江青ら四人組が権力を掌握する妨げとなります。
そのため四人組は国営新華社通信に周の追悼報道を控えるように指示。多くの職場、大学では追悼活動をすることさえ禁止しました。四人組のこの自己本位の冷酷な指示に民衆はショックを受け、四人組への怒りとなって来ます。
1月11日の午後、周の遺体を荼毘に付すために北京病院から革命公墓に運ばれた時に、約6キロの沿道は100万人以上の市民で埋まり、15日に人民大会堂で行われた追悼大会で弔辞を読むのを、張春橋は最適任の鄧小平ではなく、葉剣英が担当するようにと提案。
葉剣英は固辞し、政治局の支持で鄧が読みました。それを最後に鄧は公開の場から姿を消します。
追悼大会後、鄧への批判が一段と高まり、鄧は自己批判の文書を政治局に提出しましたが、自分の立場も主張、毛沢東との面会を要求しました。鄧は責任ある仕事をするにはふさわしくないと毛沢東に手紙で職務解除を申し出ましたが、それに対して毛沢東は首相の座を張春橋ではなく、前に述べた通り、華国鋒に引き渡しました。
毛沢東の最晩年の望みは、「安定団結」(指導部が文革を継続しつつ団結をはかる)ということであり、その望みを鄧小平に託しましたが、鄧は現実主義者で文革路線を盲進することはせず、批判されると辞意を表明しました。
それに対して毛沢東は、「うまく導き、対抗する方向にしないこと。彼の仕事は減らしても辞めさせてはならず、棍棒でたたきのめしてはならない」と毛遠新に指示していたと言われます。
(h)第一次天安門事件
それに対して四人組は、周恩来→鄧小平の路線を破壊しようとして、3月5日、上海の『文匯報』に載せた記事のうち、周恩来の言葉が削除されたということが伝わると、全国から抗議が殺到。各メディアの「走資派批判」の記事に対しても抗議があいつぎ、3月下旬には南京で「周総理を守れ」「張春橋打倒」と叫ぶ街頭デモが発生。
日本のお盆に相当する清明節の4月5日が近づくと、1月には許されなかった周恩来追悼活動が始まり、天安門広場は連日、数10万人の市民で埋まります。かくして4月5日夜9時半過ぎ、第一次天安門事件が起こります。
そのきっかけは、清明節に向けて、市民たちが広場の人民英雄記念碑に捧げた3000個に及ぶ花輪や大小の壁新聞が、すべて当局側に撤去されたことでした。民衆はその撤去に怒り、当局の車両を焼き、警備員に暴行を加えるなどし、当局側はこれを「反革命事件」として鎮圧に出たのです。
その時の現場責任者―呉徳の口述記録によると、市当局は4月3日に各界代表と話し合い、6日に市民側が花輪などを自主撤去することで合意していました。ところが、その会議中に江青を罵倒する演説をした者がいるとのメモが入り、江青が激怒して「こんな反革命演説を放置しているのか」とののしり、即刻、花輪などを撤去することを要求。清場(一斉撤去)が始まりました。
さらに、5日午後の政治局会議で、江青の息子であるため四人組の手先に変わった毛遠新が、「事件の性質は反革命に変わった」との毛沢東の言葉を伝え、こうして鎮圧の方針が決まったと言うのです。
この会議には鄧小平も出席していましたが、全く動ぜず、発言もしませんでした。当時の壁新聞に、鄧小平を支持したものもほぼ皆無でしたし、現場の責任者、呉徳が実力行使と定めた午後8時の前に演説をしましたが、その中にも鄧小平の名はありませんでした(ただし、新華社はそこに鄧小平のことが言及されていると報じた)。
しかし、四人組は周恩来=近代化=鄧小平とみなし、この機に鄧を完全に葬り、権力の主導権を握ろうとしたのだと言います。
4月7日の政治局会議は、鄧をすべての公職から解任する決議をし、こうして鄧は生涯三度目の失脚をします。しかし、劉少奇の場合とは異なり、毛沢東は鄧の党籍は保留し、除名はさせませんでした。
この四・七決議により、民衆は慈母の周恩来=鄧小平であることをはっきりと認識し、自分たちの行動によって失脚した鄧に同情と共感を持ち、四人組の鄧小平批判が強まると共に、鄧は心の英雄になったと言われます。
この第一次天安門事件で、毛沢東の文革路線は事実上終わり、鄧小平は国民の支持を一身に集めます。こうして、鄧小平路線が事実上、力強く一歩を進めるようになるのです。