カテゴリー: 矛盾論の批判と克服

矛盾論の批判と克服(16)

(g)林彪と周恩来の死

 

その後、毛沢東は林彪の権力が著しく強大化されるのを見て警戒するようになり、葉剣英など非林彪系の軍人6人を政治局入りさせたのを見て、林彪は自分も劉少奇の二の舞になると恐れたのか、妻の葉群、長男の林立果や配下の諸将と共に、毛沢東を暗殺して自力の権力を万全のものにしようとして失敗し、1971年9月13日、一味と共に飛行機で逃亡しようとして墜落死します。

 

その後、中国共産党の草創期から50年以上にわたる毛の同志、周恩来が党と国家の日常工作を一手に担うようになり、毛沢東は「批林整風」(林彪を批判し、思想を整とんする)、あるいは「批林批孔」(極右の反動として孔子を取り上げる)の運動を起こすようになります。江青は「批孔」の名を借りて周恩来の追い落としをはかるようになったと言われます。

 

その後、1976年1月8日に周恩来が死去。四人組の頭目――張春橋は周の跡を継いで総理代行となることを期待していましたが、毛沢東は甥の毛遠新に張をどう思うかと問い、遠新が「陰陽怪奇」(偏屈でえたいが知れない)と答え、「では華国鋒はどうか」と聞くと「忠厚老実」(忠実で情に厚く実直)と答えるのを聞いて、「いや、重厚少文(まじめで重みがあるが味がない)だ」と言いながら、周恩来の跡をまかせるには無難だと思い、華国鋒を国務員総理代行とし、実力が必要な外交は、1969年から下放され、周恩来の懸命の尽力で1973年から復帰した鄧小平にまかせることにしたと言われます。(さらに、影響力の強い葉剣英ら老幹部とうまくやっていけるのも華国鋒だと見たようです。)

 

さて、周恩来は毛沢東の観念的、非現実的な政治・経済の運営に対して、批判は加えずに、愛に満ちた心配りでその欠陥に終生、全力で対処し続けました。

「中国人にとって、毛沢東は厳父であり、周恩来は慈母だった」と言われます。それだけに、周恩来の死は民衆にとって大きなショックでした。そのあとを受け継いだのが華国鋒や鄧小平でしたが、この周恩来の思いやり路線は、江青ら四人組が権力を掌握する妨げとなります。

 

そのため四人組は国営新華社通信に周の追悼報道を控えるように指示。多くの職場、大学では追悼活動をすることさえ禁止しました。四人組のこの自己本位の冷酷な指示に民衆はショックを受け、四人組への怒りとなって来ます。

 

1月11日の午後、周の遺体を荼毘に付すために北京病院から革命公墓に運ばれた時に、約6キロの沿道は100万人以上の市民で埋まり、15日に人民大会堂で行われた追悼大会で弔辞を読むのを、張春橋は最適任の鄧小平ではなく、葉剣英が担当するようにと提案。

葉剣英は固辞し、政治局の支持で鄧が読みました。それを最後に鄧は公開の場から姿を消します。

 

追悼大会後、鄧への批判が一段と高まり、鄧は自己批判の文書を政治局に提出しましたが、自分の立場も主張、毛沢東との面会を要求しました。鄧は責任ある仕事をするにはふさわしくないと毛沢東に手紙で職務解除を申し出ましたが、それに対して毛沢東は首相の座を張春橋ではなく、前に述べた通り、華国鋒に引き渡しました。

 

毛沢東の最晩年の望みは、「安定団結」(指導部が文革を継続しつつ団結をはかる)ということであり、その望みを鄧小平に託しましたが、鄧は現実主義者で文革路線を盲進することはせず、批判されると辞意を表明しました。

それに対して毛沢東は、「うまく導き、対抗する方向にしないこと。彼の仕事は減らしても辞めさせてはならず、棍棒でたたきのめしてはならない」と毛遠新に指示していたと言われます。

 

(h)第一次天安門事件

 

それに対して四人組は、周恩来→鄧小平の路線を破壊しようとして、3月5日、上海の『文匯報』に載せた記事のうち、周恩来の言葉が削除されたということが伝わると、全国から抗議が殺到。各メディアの「走資派批判」の記事に対しても抗議があいつぎ、3月下旬には南京で「周総理を守れ」「張春橋打倒」と叫ぶ街頭デモが発生。

日本のお盆に相当する清明節の4月5日が近づくと、1月には許されなかった周恩来追悼活動が始まり、天安門広場は連日、数10万人の市民で埋まります。かくして4月5日夜9時半過ぎ、第一次天安門事件が起こります。

 

そのきっかけは、清明節に向けて、市民たちが広場の人民英雄記念碑に捧げた3000個に及ぶ花輪や大小の壁新聞が、すべて当局側に撤去されたことでした。民衆はその撤去に怒り、当局の車両を焼き、警備員に暴行を加えるなどし、当局側はこれを「反革命事件」として鎮圧に出たのです。

 

その時の現場責任者―呉徳の口述記録によると、市当局は4月3日に各界代表と話し合い、6日に市民側が花輪などを自主撤去することで合意していました。ところが、その会議中に江青を罵倒する演説をした者がいるとのメモが入り、江青が激怒して「こんな反革命演説を放置しているのか」とののしり、即刻、花輪などを撤去することを要求。清場(一斉撤去)が始まりました。

 

さらに、5日午後の政治局会議で、江青の息子であるため四人組の手先に変わった毛遠新が、「事件の性質は反革命に変わった」との毛沢東の言葉を伝え、こうして鎮圧の方針が決まったと言うのです。

 

この会議には鄧小平も出席していましたが、全く動ぜず、発言もしませんでした。当時の壁新聞に、鄧小平を支持したものもほぼ皆無でしたし、現場の責任者、呉徳が実力行使と定めた午後8時の前に演説をしましたが、その中にも鄧小平の名はありませんでした(ただし、新華社はそこに鄧小平のことが言及されていると報じた)。

 

しかし、四人組は周恩来=近代化=鄧小平とみなし、この機に鄧を完全に葬り、権力の主導権を握ろうとしたのだと言います。

4月7日の政治局会議は、鄧をすべての公職から解任する決議をし、こうして鄧は生涯三度目の失脚をします。しかし、劉少奇の場合とは異なり、毛沢東は鄧の党籍は保留し、除名はさせませんでした。

 

この四・七決議により、民衆は慈母の周恩来=鄧小平であることをはっきりと認識し、自分たちの行動によって失脚した鄧に同情と共感を持ち、四人組の鄧小平批判が強まると共に、鄧は心の英雄になったと言われます。

 

この第一次天安門事件で、毛沢東の文革路線は事実上終わり、鄧小平は国民の支持を一身に集めます。こうして、鄧小平路線が事実上、力強く一歩を進めるようになるのです。

 

矛盾論の批判と克服(15)

(f)「劉鄧打倒」の暴走

 

 そうこうするうち、1966年10月16日、北京で開催中の中央工作会議で、中央文革小組の組長、陳伯達は、毛沢東が自らの大字報で「砲撃せよ」と言った司令部とは、ブルジョア反動路線の頭目である劉少奇と鄧小平だとはじめて明言しました。

 

この二人への「反動路線」批判は、直ちに街頭に張られた大字報によって伝えられ、マスメディアを通じて、全世界に向かって報じられるようになります。

林彪もこれに調子を合わせて、「党内には『劉・鄧』のように大衆を圧迫する反革命路線と、大衆に依拠し発動するプロレタリア革命路線という二つの路線の対立がある」と言いました。

 

 これに対して北京農業大学附属中学の二人の学生が、「林彪は毛沢東を持ち上げ過ぎであり、文革の中で起きている問題を理解していない」と公開質問状を提示し、それに呼応して文革発動初期に活動した北京の〝古参紅衛兵〟たちが、「首都紅衛兵連合行動委員会」(連動)を結成。中央文革小組への批判を開始します。

彼らは党や人民解放軍幹部の師弟が多く、親や家族が「ブルジョア反動路線」批判や古参軍幹部批判にさらされていたのです。

 

 こうして互いに相手を「反革命」だとして武力闘争が頻発するようになったのに対し、「中央文革小組をほうり出し、自分たちで革命を起こそう」(北京林業学園学生、李洪山の大字報)と独自路線を提唱するグループも現れ、北京大学などに広く影響を及ぼすようになります。

 

 これに対して多数派紅衛兵は、「死を賭して毛主席、林彪、中央文革小組を守ろう」と呼号して街頭で反対派紅衛兵と武闘。同時に中央文革小組は治安部隊を出動させて、李洪山派の一斉逮捕に踏み切り、それに対して連動は公安当局を襲撃。

これに対して、林彪、江青派の紅衛兵らによる党、政府、軍の指導部に対する容赦ない弾圧が12月に始まり、元北京市長の彭真、陸定一、元総参謀長の羅瑞卿などに対して容赦のない拷問が加えられました。

 

 さて、毛沢東が「実権派」と呼ぶ劉少奇、鄧小平ら党中枢の多数派を打倒するためには、彼らが握っている党中央や地方党委員会の組織をつぶして、新たな革命組織を構築する必要がありました。

 

 その革命の手始めとして、1966年末、まず文革の中心――「上海紅衛兵革命委員会」(紅革会)が上海市党委員会の機関誌――解放日報を武力封鎖しました。上海の造反派の中心は労働者(工人)組織の連合体である「上海市工人革命造反総司令部」(工総司)でしたが、その中心人物は、後に江青、張春橋、姚文元と共に四人組を組むことになる王洪文でした。その工総司が紅革会と合流しました。

 

 それに対して、劉、鄧の側に立つ上海市党委は配下の労働者組織――「上海工人赤衛隊」を動かして反撃に出、2日間に及ぶ解放日報争奪戦によって、いったんは赤衛隊が解放日報を奪い返しました。

 

 それに対して、中央文革小組は、紅革会が解放日報を奪い取ったのは「革命事件だ」と主張し、これを党中央決定とすることに成功。そのため市党委は解放日報を再び紅革会に明け渡さざるをえなくなりました。それに対し、体を張って解放日報をいったんは奪還した赤衛隊は黙っておられず、市党委書記兼市長の曹荻秋らをつるし上げ、市党委を2万人以上で包囲し、再び解放日報を力ずくで奪い返そうとしました。

 

 そのことを張春橋の妻、李文静から聞いた王洪文は工総司10数万人を結集して赤衛隊を襲い、その結果、工総司が勝利し、赤衛隊幹部240人以上が拘束されました。

 その結果、上海市党委主流派は指導力を失い、代って文革小組派が奪い取った1967年1月5日付の解放日報は、「上海全人民につぐる書」を掲載。上海市党委に対する宣戦布告を行い、翌6日には、工総司が人民公園で100万人集会を開き、「反革命の罪行を告白せよ」と曹荻秋ら市党委最高幹部をつるし上げ、三角帽子をかぶせて市中を引き回すなどして政治生命を絶ちました。

こうして上海の権力は、全面的に張春橋ら文革急進派の手中に帰したのです。

 

 1967年2月5日には、文革急進派は張春橋を主任、姚文元と王洪水を副主任とする「上海人民公社」の成立を宣言。毛沢東は、これを1871年のパリ・コンミューンに比すべき大勝利だとして喜び、これを「上海市革命委員会」と命名しました。

 

 劉少奇への攻撃も熾烈を極め、67年1月1日早朝、劉の執務室に2人の男が押しかけ、壁に「中国のフルシチョフ、劉少奇を打倒せよ」というビラを張り、その2日後の夜には急進派20人が居宅内にまで突入。劉少奇と妻の王光美を廊下に立たせて「毛沢東語録」を暗唱させるなど、1時間に及ぶつるし上げをしたといいます。

 

 さらに6日夜には、娘の平平が車に足をひかれたという電話があり、劉少奇夫妻が病院に行くと、彼らは王光美を捕らえ、清華大での批判集会に引きずり出しました。事故というのはうそで、それは光美を拉致するための江青の指示によるわなでした。

 

12日には、劉の私邸のそばで大勢が叫び声を上げ、歩哨がそれを制すると、「保皇狗(走資派を擁護する犬)め」と言い、この一言で歩哨がたじろぐと、彼らは外門を突破して庭になだれ込み、口々に劉少奇に自己批判を迫り、「これからは炊事、便所掃除、洗濯など何でも自分でやれ」と毒づいたりしました。

 

 13日の夜には、毛沢東から人民大会堂でみんなに話をするから、その時話をしようとの電話連絡があり、行って見るとそれまでのことはみな筒抜けだったので、劉少奇は毛に、

①路線の誤りの責任は自分が負うので、早く広く幹部を解放し、党が受ける損失を減らして欲しい、

②すべての職を辞し、妻子と共に郷里で畑仕事でもして暮らしたい、という二つの希望を述べました。

 

それに対して、毛は「真剣に学習し、体をいたわるんだ」とだけ言い、劉の願いについては何も触れませんでした。そこで、これで終わったのかと思っていると、その夜も、邸宅に乱入した一団が、劉夫妻を、脚が折れて不安定な机の上に立たせて批判を繰り返しました。

 

 そこで劉は「私はこれまで毛沢東思想に反対したことはない。毛沢東思想に、ときに反したことはあったが、仕事上の食い違いがあっただけだ」と反論しました。

 それでも迫害は止まず、19日には造反派は党中央とつなぐ専用電話回線の撤去をまで要求して来ました。

 

 4月10日には、妻、王光美が清華大に連行され、「反動的ブルジョア分子」だから何の自由も認められないと言われ、無理やりチャイナドレスを着せられ、首にピンポン玉で作ったネックレスをかけるなど、論外の恥ずかしめを受けました。

 

 さらに、「司令部を砲撃せよ」という毛沢東の大字報が配布されてから丸1年になる67年8月5日、北京の天安門広場で大規模な記念集会が開かれた時、これと連動して広場から1キロ余りの中南海で、劉と鄧の糾弾集会が開かれ、劉少奇は監禁されていた執務室から引きずり出され、光美とともに〝批判台〟に立たせられ、2時間にわたって両手をうしろにまっすぐ伸ばして腰をかがめ、頭を下げる「ジェット式縛り上げ」にされ、拷問を受けました。

 

 精神的に追い詰められた劉は毎日2、3時間しか眠れず、炊事係も彼の元を去り、作り置きしたものを分けて食べるしかなく、古くなった食物も混じっているため消化不良で下痢が続きました。

革命戦争時代に痛めた手はつるし上げで殴られてさらに不自由となり、一枚の服を着るのに1、2時間もかかり、足の古傷が悪化したために、30メートルの距離にある食堂に着くのにも50分かかりましたが、劉がよろけても、監視員はだれ一人として手を貸そうとしなかったと言われます。

 

 医者も造反派からの批判を恐れて、「中国のフルシチョフ」とののしり、時には聴診器で殴りつけ、注射器でやたらに体を突き刺し、投薬も十分にせず、ビタミン剤や糖尿病の治療薬も止められたと言います。

 

 こうして、「党からの永久除名」を受けてから1年後の1969年10月17日、北京から河南省開封に移され、ここに軍用機で運ばれた時、劉は裸のまま軍用毛布に包まれ、担架に乗せられ、コンクリートがむき出しの倉庫部屋に監禁され、そのため肺炎がぶり返し、高熱で嘔吐が止まらず、その後、1ヶ月も経たない11月12日6時45分に、71歳の劉は死去。それから2時間も経ってから救急隊がやって来たと言われます。

 

その遺体には「劉衛黄」という偽名が付され、死は一般に公表されず、家族にも知らされませんでした。

妻子が劉の死を知ったのは、それから約7年9ヶ月の後で、その時には、劉の遺言どおり、遺灰は海にまかれたと言います。

何という残酷な仕打ちでしょうか。

 

毛沢東の「集団化、機械化」の徹底というあまりにも非人間的な政策を強行し続けるに忍びず、公共食堂の制度を廃止し、自留地(耕作地の個人への割り当て)、自由市場、個別請負などを認めただけなのに、これを修正主義、資本主義の逆戻りだと見、許すべからざる階級的犯罪だと見て、満足な食事も与えず、ジェット式縛り上げなどの拷問で手も足も機能が止まり、ビタミン剤や持病の糖尿病の薬すらも与えられなかったというのです。

 

そのため、劉少奇は北京から開封に移されてから1ヶ月も経たないうちに死んでしまったのです。これは懲役よりもっとひどい。文字通りの虐殺ではありませんか。それが社会主義だというのですか。地獄そのものではありませんか。

 

これから一体どういう「矛盾の特殊性」が学べるというのでしょう。これがまともな人間のすることか。こんな矛盾のかたまり、いや犯罪のかたまりから、いったい何が学べるというのでしょう。

理論という面では卓越していなくても、実務面で非常にすぐれ、愛も深かった劉少奇を、単なる「物質」としか見なかったというところに、毛沢東のとんでもない思い違いの原点があったと考えるほかありません。

 

矛盾論の批判と克服(14)

e)百万人集会と四旧打破

 

ついで1966年8月18日には、天安門広場で文化大革命祝賀群衆大会が開かれました。

 

開幕は午前7時半。毛沢東は参加者を驚かせる効果を狙って、5時過ぎに早々と車に乗り込み、着いた時はまだ会場整備中でしたが、その時には広場に大学生や中学生(日本の中・高生に相当)を中心とする紅衛兵(紅色造反隊)が全土から続々と集結、その数は10数万人にもなっていました。

毛は天安門楼閣から要人専用エレベーターで地上へ降り、前触れもなく紅衛兵の前に姿を現し、声援を浴びました。彼らは手に手に毛語録を掲げ、大声で万歳を叫びながら毛沢東と握手を求めます。

 

やがて開幕となると、天安門上の毛沢東の周りには林彪や周恩来ら党と国家の最高首脳が居並び、そのうちに劉少奇もいましたが、劉は毛から「学生運動の鎮圧」を厳しく批判され、党内序列も二位から八位に落とされたことを、参加者はこの翌日公表された名簿から知るようになります。

 

開会宣言は「中央文革小組」組長、陳伯達が行い、続いて立った林彪は、紅衛兵を「文革の急先鋒」と位置づけ、旧来の思想、文化、習慣の破壊を呼びかけ、対照的に周恩来は「相互学習、相互支援をもとに革命経験の交流を行い、団結を強化してほしい」とおだやかに説きました。

劉少奇の失脚後、「火薬に火をつける林彪」に対し、「火消し役の周恩来」で、二人がバランスを取っていくようになるわけです。

 

翌19日には、北京市第二中学の紅衛兵によって、北京の街頭のいたるところに、「旧世界に宣戦する」と題した大字報が出され、林彪の呼びかけた「四旧打破」(すべての旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣をたたきつぶす)が高らかに宣言されました。しかし、その「打破」はとんでもない形で発揮されるようになります。

 

例えば、この大字報の宣戦布告がなされた当日、天安門広場南側にある有名な鴨料理店「全聚徳」が中学の紅衛兵に占拠され、「こんな高い料理は労働人民には不要だ」と叫び、人民の血と汗を搾取した象徴だとして、看板が引きずり降ろされ、代わりに「北京烤鴨店」と書かれたペンキ塗りの木製看板が掛けられました。

 

また、書画の名店「栄宝斎」が「資産階級のお嬢ちゃん、お坊ちゃん、奥様、だんな様、反動的学術権威に奉仕する店」だと断罪され、伝統のある看板が「人民美術出版部第二小売部」とすげ変えられます。

 

これらの店舗だけでなく、「旧世界」のイメージを、一新するためだとして、市内各所の施設や街路の看板にも張り紙をして名称が次々と変えられていきました。

 

ジーンズや長い髪、パーマなどもブルジョア的だとされ、人権までがブルジョア思想として切り捨てられます。

さらには、「赤は革命の象徴なのに赤信号で停止するのはおかしい」と言いだして、事故を多発させるという滑稽な事件も起こります。

 

世界的な作家で67歳になる老舎が、なぐられて頭から血を流し、力尽きて倒れると、態度が悪いと深夜まで傷めつけられ、翌朝傷だらけで帰宅し、苦痛のあまり入水自殺するという事件にまで至ったという惨劇もあります。

 

張連和(ちょう・れんわ)の手記によれば、

「8月31日夜、県党委から『四類分子』(地主、富農、反革命分子、悪質分子)とその家族が虐殺されているとの一報が農村工作部に入り、県党委幹部らと合流して現場に急行した。

村内の一軒の民家に『四類分子』が連行され、そこが“処刑場”と化していた。

目に入ってきたのはおびただしい血と散乱する死体だけではなかった。その隣には、鮮血に染まった村民が縄で縛り上げられていた。尋問する側の村民は、何本ものくぎが付いた革製のむちのようなものやこん棒を手にしている。これで『四類分子』を殴りつけ、土地の所有権証書や武器などの隠し場所を自白するように迫っていたのだ。

別の部屋では、両手を縛り上げられた70過ぎの老女に身を寄せる14、5歳の男の子が、鉄棒を持った若い男に尋問されていた。『早く言え。お前らの『変天帳』(財産目録)はどこにあるんだ』

………

『分らない』と子どもが言うと、男は容赦なく子どもの手を鉄棒でたたいた。子どもの左手の薬指と小指がちぎれ、たちまち鮮血が噴き出した。

いくつもの死体を中庭で手押し車に積んでいる男もいた。息絶え絶えながらまだ生きている人もいたが、男はシャベルで一撃を加え、絶命させて外に運び出した。」(『毛沢東秘録上』扶桑社、185-186頁)

 

この手記が事実だとすれば、これはまさに最も悪質な連続殺人事件ではないでしょうか。

実際、同書には、「8月27日から9月1日にかけ、大興県の各地で22世帯の80歳から生後38日の乳飲み子まで325人が犠牲となった」、「文革後に公表された数字によると、北京市だけで8月24日から9月1日までの間、撲殺された人は1529人にのぼる」(同、187頁)とあります。

 

いったい、これでも毛沢東は「乱れるにまかせればよい」と工作隊の派遣や警察の取り締まりを禁じ続けようとするのでしょうか。

実際、国務院公安部長の謝富治(しゃ・ふじ)は、北京市公安局拡大会議で「だれかを殴り殺すことに賛成はしない。だが、人々が悪人を心底憎んでいるならわれわれは制止しきれないから、無理やり止めることはしない」(186頁)と言っています。

 

それでは、相手が「悪人」で、だれかがその悪人を「心底憎んでいる」のなら、「制止きれない」として警察は手を出さないというのでしょうか。もしそうなら、ほとんどの殺人は無罪だということになってしまうでしょう。しかも、ここで「悪人」というのは、毛沢東・林彪の「四類分子」というイデオロギーによってそう定義されているだけのことに過ぎないのです。

 

また、謝富治は「警察は紅衛兵の側に立ち、情報を提供しなければならない」(186頁)とさえ語っています。ここで「情報」というのは、だれが「四類分子」かということについての情報です。

 

すなわち、公安・警察は、殺人にまで発展する「階級闘争」を文闘の範囲にとどめようと規制するどころか、これは殺してもかまわない四類分子だという情報を紅衛兵たちに与えさえしていたというのです。そのため、紅衛兵は警察のさし出すリストに従って、安全が保証された中で何の罪悪感もなく、悪くすれば死に至るお仕置きを平気でしていたわけです。そのために一週間で1500人以上が撲殺されるというような、法治国家では到底考えられない無法の惨劇が生じたわけです。

 

こういう惨劇を前にしても、毛沢東は反省するどころか、10月1日の祝賀大会で、天安門楼閣上に招かれた人民解放軍総医院の李宗仁に、休憩室で茶を勧めながら、こう語ったと言われます。

「大衆が動き出したようだ。………火をつけたのは私で、火はもうしばらく燃やす必要がある。だが、火をつけても災いは容易に消せる………祖国はかつてより強大になったが、十分じゃない。再建設にはあと少なくとも2、30年をかけ、ようやく真に強大になるんだ」(192頁)。

 

毛沢東は、こういう無法な大量虐殺をさらに、2、30年も続けなければならないと言うのです。こういうことを個別的に実践し認識するのが「矛盾の特殊性」の認識だというのであれば、これはまさしく大量殺人の哲学だと言うほかありません。

 

矛盾論の批判と克服(13)

その直後の1966年6月初めに、北京の清華中学の校内に、「われわれは紅色政権を防衛する衛兵である」という大字報が張り出されました。これが「紅衛兵」の産声です。その多くは学業成績も優秀な党幹部の子弟だったと言われます。彼らは毛神格化が強まる中で育ち、全く純真に「毛思想の絶対権威」を打ち立てようとして、階級闘争に打ち込んだわけです。

 

 それに対して、南京では、大学や市の省工作隊の側も学生を動員するようになり、「紅旗戦闘隊」と呼ばれる紅衛兵組織を設立しました。それに対して毛沢東に忠誠を誓う紅衛兵組織の方は「紅色造反隊」と呼ばれ、これはおおむね毛沢東理論で革命的な出身成分だとされる労働者、貧農、下層中農、革命軍人、革命幹部の五つ――「紅五類」に属していました。(それに対して、地主、富農、反革命分子(旧国民党政権の関係者や資本家層)、悪質分子、右派分子(共産党への批判者など)は「黒五類」と呼ばれ、その出身者は「紅色造反隊」に加わることは難しく、「反革命分子」「悪質分子」「右派分子」「牛鬼蛇神」呼ばれ、造反隊によって家荒らし、吊し上げ、暴行などを受ける批判、闘争の対象となりました。)

 

もう一つ、紅色造反隊に加わりたいが出身成分が悪いために思うにまかせない者や、造反隊が味方を増やそうとして革命経験交流に誘うのに応じた中道左派――「八・二八革命経験交流会」(1966年8月28日に発足したことからこう名づけられた)があります。

この「紅色造反隊」「紅旗戦闘隊」「八・二八革命経験交流会」の区分については、董国強編『文革』築地書館、39~44頁。及び50頁の各派概略図参照。

 

 なお、五・一六通知に基づいて新設された「中央文化革命小組」(これが後日、江青や『海瑞罷官』批判を書いた姚文元、張春橋、王洪文ら四人組の根城となる)が、共産党の機関誌、人民日報の主導権を握り、6月1日には、毛沢東の「すべての妖怪変化を一掃せよ」との趣旨を踏まえた社説、2日には聶元梓の大字報、さらに「ブルジョア階級の学者や権威を一掃しよう」など、文革を鼓舞する社説が五日連続で掲載されました。

 

 その結果、学校や街が大混乱となったので、劉少奇はとりあえず党政治局拡大会議で、大字報は学内にのみ張る、デモ行進、大規模な糾弾集会禁止など「八ヶ条指示」を出し、工作隊を組織して鎮静化をはかり、さらに6月9日、鄧小平と共に杭州の毛沢東のもとに飛び、事態の収拾を願い出ました。しかし、毛は単に手を振って「乱れるにまかせたらいい」と言い放つだけでした。

 

 二人が北京に戻ると、情勢は悪化する一方で、学校幹部や教師、右翼と見られた学生が糾弾集会に暴力的に引きずり出され、死亡したりする者まで出ました。そのため、党中央には犠牲者の家族から、「こんなことは封建社会にもなかった」などという憤激の手紙が大量に舞い込みました。

 

 6月18日には、毛沢東の意向で反動として北京大学学長を解任された陸平をはじめ40数人の党幹部、教師、学生が急進的な学生たちに「黒幇」(黒い一味)としてつるし上げられ、「闘鬼台」「斬妖台」と名づけられた台の上で、顔に墨を塗られ、紙を巻いた三角帽子をかぶせられ、首に名前や“罪状”が書かれた看板を下げられるなどの無惨な仕打ちを受け、女性で衣服を引き裂かれる辱めを受けた者もいました。

 

 騒ぎを知った本部の工作隊は、すぐに駆けつけてやめさせ、全校大会を開いて「むやみなつるし上げは革命運動を損なう」と非難し、劉少奇はこの事件の報告書に「処理は正確で、すばやかった。参考とするように」とのコメントをつけて、党中央の名で全国に流しました。

こうして、学校の党委員会に代って「秩序ある」文化大革命を指導しようとした工作組(紅旗戦闘隊)と、自分たちこそ毛沢東の文革を誠実に実行しようとしていると固く信じる紅色造反隊とが、互いに相手を「反革命」と非難し合うようになります。

 

 そこに、農民の出で、祖父が中国共産党の抗日戦争戦士、父母も建国前からの党員である21歳の学生、蒯大富が、清華大学の構内で見ていた一枚の大字報に、「革命の主要問題は奪権である。いま権力は工作組の手中にある。この権力はわれわれを代表しているか。そうでなければ奪権せねばならない」と書きつけ、その日(6月21日)、劉少奇の妻、王光美が工作組の一員として精華大学に来、工作組は歓迎準備までしていたので大騒ぎとなり、2日続けて糾弾大会が開かれました。

 

それに対して、24日、附属中学(日本では高校までも含む)に「革命すなわち造反。毛沢東思想の魂は造反である。」という大字報が張り出されました。

 このことを毛の妻、江青たちの「中央文革小組」が毛沢東に伝え、7月18日に北京に現れた毛沢東は、劉少奇らを呼んで、この工作隊の行為について、

 「学生運動を鎮圧するのはだれか。(袁世凱の)北洋軍閥と(蒋介石の)国民党だけだ」と批判しました。

 

 このことから毛沢東は、秩序ある批判、闘争は好まず、紅色造反隊がしたような徹底的に暴力的な闘争による「奪権」を奨励し、「造反有理(反乱には理がある)」(1939年の抗日戦争中の発言)であって、その点で、毛は劉少奇に反対していたということが分って来るのです。しかし、一体このような死者や自殺者まで出す残忍な批判、闘争が、果たして、闘争者、被害者のいずれにも、幸福をもたらすといえるのでしょうか。

 

 さて、1966年6月8日、72歳となった毛沢東は、厳重な警備の中、乗用車で故郷の韶山の近く、滴水洞に党が一億元を投じて建てた別荘に行き、11日間滞在。7月16日には武漢で長江横断水泳大会に参加。人民日報は、毛が15キロを1時間5分で泳いだと報道。18日には北京に舞い戻り、劉少奇が組織した工作隊の派遣を上記の通り非難。24日から2日間、党政治常務委員会と中央文革小組を招集し、あれほどの惨事があったにもかかわらず、「工作組は運動を阻害し、悪い作用を及ぼす。すべて追放すべきだ」と発言します。

 

 4日後の7月29日には、党中央は「北京市大学高専と中学の文化革命積極分子大会」を開き、鄧小平と周恩来はそれぞれ工作組を派遣した責任を認め、最後に立った劉少奇は、どのように文革を推し進めて行ったらよいのか分らないととまどいを見せました。この大会の終了間際に、毛沢東が突然、会場に現れ、感激の拍手と毛を賛美する勇壮な曲と歓声がホールにこだまし、力の限り万歳が叫ばれました。

 

 8月1日からは、人民大会堂で第八期中央委員会第11回総会(八期11中総会)が開かれ、毛沢東は「司令部を砲撃せよ――私の大字報」という指令分を配らせます。そこには、「一部の指導者の同志は反動的資産階級の立場から文革をたたきつぶし、無産階級の士気をくじいて得意になっている」と書かれており、明らかな劉少奇「司令部」打倒宣言でした。

 

 会場には、聶元梓や江青らの中央文革小組のメンバーも加わっており、劉少奇が政治報告をすると、毛は何度も厳しい調子で詰問しました。

4日にも、毛は政治局常務委拡大会議を招集し、劉少奇が「あの時期、主席は不在で、主な責任は私にあります」と自己批判すると、毛は声を荒げて、「お前は北京で独裁を敷いたのだ」と批判し、葉剣英(中央軍事委副主席)が、「我々は妖怪変化など恐れはしません」と劉をとりなそうとすると、毛は「妖怪変化は一座の中にいる」と言いました。

 

 この毛のやり方から分ることは、毛沢東は整然たる平和的批判運動は好まず、階級敵とみなしたものを暴力で破滅させることしか考えておらず、その暴力に規制を加えることに全く反対であったこと。工作組を用いて批判運動に秩序を与えようとする劉少奇に対して、ひとかけらの愛情も信頼もなく、乱れるにまかせようとしない劉に、憎しみをしか感じなかったということです。

このようなやり方で、果たして万人を幸福に導くことができるのでしょうか。

 

 12日には、毛は党中央機構の改組を提案し、劉少奇の党内序列を一気に二位から八位に落とし、毛を天才としてその言動のすべてをそのまま受け入れる林彪を六位から二位に引き上げました。中央文革小組のメンバーも、その時破格に地位が上げられています。

 

矛盾論の批判と克服(12)

(b)社会主義教育運動と四清運動

 

 さて、毛沢東は経済面では大躍進運動を行ない、これがうまく行かなかったために、その点について批判を加えた軍のトップ、彭德懐を罷免して林彪に切り替えました。他方、軍事面では、ソ連との関係悪化もあって、四方を敵に囲まれた形の中国の防衛のため、1950年代後半以降、「国民皆兵」を旗印に、ほぼすべての政府機関、企業、工場、学校で民兵組織をつくりました。

 この双方を円滑に発展させるために、自らの唯物弁証法の思想に基づく思想教育の徹底化と、それに基づく階級闘争の徹底化が必要だ。こう「存在が意識を規定する」という理論に従って毛沢東は考えました。

 

 これが1960年前半から毛が力を注いだ社会主義教育運動(社教運動)と、それに基づく四清運動(政治・思想・組織・経済の点検)です。社教運動のテキストには、林彪が編集した五十億冊にのぼると言われる『毛沢東語録』が用いられ、四清運動には都市の職場や農村に工作隊が派遣され、地主、富農、資本家のような「悪い階級」の人々に対して批判闘争が行なわれました。具体的には、農村の人民公社では「四清(賃金点数、帳簿、財産、在庫の点検)」、都市部においては「五反(反汚職、反横領、反浪費、反官僚主義、反投機)という目標が立てられ、それが相手の心の内面などいっさい考慮することなく、「闘争」という形で押しつけられたのです。

 

 さて、毛沢東が定めたこのような基本方針に対して、軍事面は、現実がどうであろうと一切意に介さず、ひたすら毛沢東思想が正しいとして盲進する林彪が最高の責任者となったので問題はありませんでしたが、政治・経済面は毛沢東思想を原則として遵法しつつも同時に現実をも重視する国家主席の劉少奇(毛は大躍進政策の不評から彼を政治の中心に立てざるをえませんでした)や党総書記の鄧小平などの実務派が握っています。

 

彼らは現地を見て歩き、例えば劉少奇は、食糧自作が一切認められない公共食堂制に対する農民の不満が非常に強いのを見て、公共食堂がなくなれば社会主義や人民公社がなくなってしまうわけではないと見て、公共食堂の解散を受け容れました。同様に、個人に耕作地を割り当てていく農村自留地や、そこでとれた作物を売買する自由市場、さらには上記のごとく農家が個別に生産を請け負う個別請負なども認めていこうとする方向に実務派は傾いて行ったのです。

 

唯物弁証法を不動の真理だと盲信する毛沢東は、このような実務派の動きによって、社会主義体制が崩壊し、「資本主義」「修正主義」に逆もどりしてしまうのではないかと内心、非常な危機感を抱くようになりました。

 

しかし、毛も彼らを党の中心に立てた以上、一般大衆の評価という大義名分なしには、彼の信条からしても、こうした実務派を解任することができません。そのため青年たちを動かして、下からの「階級闘争」によって、「社会主義」を死守する必要があるとひそかに考えるようになりました。この構想がやがて「プロレタリア文化大革命」となって現実化されて来るのです。

 

(c)「海端罷官」の批判

 

 このような情勢下にあって1965年11月、再び廬山会議を想起させるような事件が発生します。

 

 それは首都北京の副市長で明代史の専門家でもある呉晗が1960年に書いた京劇の脚本――『海瑞罷官』が、後に毛沢東の妻、江青と組んで「四人組」を形成するようになる姚文元(『解放日報』編集委員)によって1965年11月に批判を受けるようになった事件です。

 

 この「海瑞」とは明朝の嘉靖帝時代の高官で、皇帝が民をかえりみないことをいさめたために怒りを買い、罷免、投獄された人物で、姚文元は、呉晗はこの脚本で封建時代の役人を肯定的に描くことによって、「地主階級国家を美化し、革命を不要とする階級調和論を宣伝した」と評し、これはプロレタリア独裁と社会主義に反対する「毒草」だと批判したのです。

 

 毛沢東自身は6年前に上海で、この劇を見た時、皇帝をいさめる場面に感銘を受け、「海瑞は皇帝をののしったが、それは忠心からきたものだ。忠誠にして剛直、……(こういう)海瑞精神を提唱しなければならない」と真実を語ることをためらう党内の風潮を批判していました。

 

 しかし、毛は江青の指摘で、彼女が書かせた姚文元のこの論文を見、皇帝は自分、海瑞は彭徳懐で、彭徳懐の意見をいれずに解任した自分へのあてつけに書かれたとも受け取られる。そこで『海瑞罷官』は反党分子の彭徳懐を擁護するものだと批判することによって実権派に対する政治闘争を仕掛けることができると考えるようになったのです。

 

呉晗はまた鄧拓(北京市党委員会書記)や廖沫沙(北京市党委統一戦線部長)らと組んで、『三家村札記』という大躍進時代の現象を巧妙に風刺するエッセイを執筆しており、北京市長、彭真と考えが一致していましたが、そのため彭真は自分も標的の一人となっていることに気づき、翌1966年2月に彼ら「五人小組」を招集して、「実事求是(事実に基づいて真理を追究する)を堅持し、独断と権勢をもって人を押さえ込んではならない」と、どこまでも問題を学術論争の枠内に押しとどめるべきだとする「二月テーゼ」をまとめました。

 

これに対して1966年5月、毛沢東の影響のもとで、中国共産党中央委員会の通知(五・一六通知)が採択され、二月テーゼは取り消されます。さらに同じ月、彭真は、羅瑞郷、陸定一、楊商昆などの有力政治家らと共に、「反党集団」とされ、職務を解任されてしまいました。また鄧拓は54歳の若さで自殺しています。この五・一六通知ではじめて、「プロレタリア文化大革命」という表現が用いられるようになり、各界の「ブルジョア階級の代表者」が糾弾されるようになるわけです。

 

 この五・一六通知に基づいて、中央文化革命小組が新設され、江青、張春橋、姚文元、さらにその後、王洪文が加わって、毛沢東擁護の尖兵――四人組が活躍するようになります。

 

(d)プロレタリア文化大革命への移行

 

 ひるがえって、毛沢東は共産革命の忠心と見ていたソ連が「修正主義」に移行したことを踏まえて、1964年7月14日の人民日報で、社会主義内部の階級闘争は「百年から数百年かけなければ成功しない」と述べています。これは毛沢東のものの考え方の特徴を如実に示しているように思われます。

 

 毛はその「成功」まで人間の一生を超えるほどの時間がかかると推定しつつ、それほど困難なのは唯物弁証法の人間、社会観に問題があるからだとは考えず、一生、二生をかけてでもその目標を達成しなければならぬと思い込む。2700万人もの餓死者が出てもなおそれが正しい政治・経済政策だと信じ続ける。これほどの無反省の独断の産物が果たして真理だということができるでしょうか。

 

 こんな途方もない暴論を押し通して無理矢理「成功」に導くため、毛沢東は1966年5月、上述の五・一六通知の中で「すべての牛鬼蛇神(妖怪変化)を一掃せよ」との下知を全国に向かって飛ばしました。

 

 これと呼応して直ちに北京大学の学生大食堂に、北京大学と北京市の党委員会幹部を「君」呼ばわりで痛烈に批判する大学報(壁新聞)が5月25日に張り出されました。筆者は北京大学の女性講師で秀才として名の高い聶元梓。中央文革小組の顧問で、毛沢東の妻の江青と同郷の友――康生の妻の勧めで書いたのだと言われます。

 

 そこには、「集会や大字報は最良の大衆的で戦闘的な方法であるのに、君らはそれをさせないよう“指導”することによって、大衆的革命を弾圧している」などと批判されています。これは何よりも「闘争」を重んじた毛沢東の意を踏まえたものだといえましょう。

 

矛盾論の批判と克服(11)

三、矛盾論の具体的適応例─文化大革命

 

さて、毛沢東は、すべてのものが矛盾から成り立っている(矛盾の普遍性と絶対性)ものとして、強引かつ独断的に結論づけた上で、今度はその特殊性と相対性に目を向けさせようとします。

 

「まず、物質のさまざまな運動形態における矛盾は、いずれも特殊性をもっている。人間が物質を認識するというのは、物質の運動形態を認識することである。なぜなら、世界には、運動する物質以外に存在するものはなく、物質の運動はかならず一定の形態をとるからである。」(『世界の名著78 孫文 毛沢東』中央公論社、377頁)

 

しかし、毛沢東がいう「世界には、運動する物質以外に存在するものはない」というのは本当でしょうか。労働者も「運動する物質」なのでしょうか。

 

毛沢東は5000世帯もの労働者をひとまとめにして政府の命令以下、法外なノルマを課してものを生産させ、こうして造り出した労働生産物を自由に売り買いすることをいっさい許さず、すべてを人民公社に収めさせましたが、このことは、毛沢東が本当に労働者を「運動する物質」だと考えて、精神的な欲求や喜びを完全に無視し、まるで機械のようにどれだけ生産の能率を上げさせるかということしか考えなかったことを意味します。

 

また、毛沢東の思う通りに行動しなければ、それを批判し、さらに自己批判させ、自己批判もしない者に対しては、「階級闘争」と称して徹底した処罰(暴力)を加え、そのために死んだり、自殺した者が無数にいました。それでも、これは「運動する物質」につきものの「矛盾」が、死ぬことによってなくなったというだけのことだと見たのでしょう。少しもそれをかわいそうだと思ったり、やり過ぎたと反省したという形跡がないのです。思想、信念というものがどれほど恐ろしいかがそこから分かります。

 

「物質のそれぞれの運動形態については、それとその他のさまざまな運動形態との共通点に注意しなければならない。しかし、とりわけ重要で、事物を認識する基礎となるのは、その特殊な点に注意しなければならないこと、つまり、それと、その他の運動形態との質的な相違に注意しなければならないことである。この点に注意してはじめて、事物を区別できる。」(同)

 

毛沢東は強調します。認識には「二つの過程」があり、「一つは特殊から一般へ、一つは一般から特殊へと進む」(同、378頁)として、「人類の認識は、つねに、このように循環しながら進むものであって、一循環ごとに〔厳密に科学的方法によるかぎり〕、それは一歩ずつ高められ、不断に深められていく」(同)のであると。

 

ところが、「教条主義者」は「矛盾の特殊性を研究し、さまざまな事物の特殊な本質を認識してこそ、矛盾の普遍性を十二分に認識でき、さまざまな事物の共通の本質を十二分に認識できるのだということがわかっていない。」(同)

「他方、事物の共通の本質を認識してのちもなお、まだ深くは研究されていないか、あるいは新たに現れてきた具体的事物について、ひきつづき研究しなければならないということがわかっていない。」(同)

「わが教条主義者はなまけ者である。……かれらは、一般的真理が、天からふってくるかのようにみなし、それをとらえようのない、まったく抽象的な公式にしたてて、人類が真理を認識する正常の順序を完全に否定し、しかも逆立ちさせてしまう。」(同)

 

すなわち、毛沢東としては、万能の「一般的真理」があると見て、いきなり「一般から特殊へ」と進んではいないというわけです。

 

では、毛沢東のこのような考え方が、実際の政治にどのように適用されて行ったのかを、毛沢東が主導した「プロレタリア文化大革命」(文革)の具体的展開と突き合わせながら、順次、見て行くことにしましょう。(『毛沢東秘録上、下』扶桑社より)

 

(a)大躍進運動と廬山会議

 

1958年、毛沢東は、西欧諸国やソ連に対する対抗意識のもとに、「社会主義社会における労働者階級と農民階級の矛盾は、農業の集団と機械化の方法によって解決される」(『世界の名著78 孫文 毛沢東』中央公論社、379頁)という自分で思いついた理論に基づいて、農家を中心に平均5000戸を集団化した「人民公社」を急速につくって、「多く、速く、立派に、無駄なく」飛躍的な生産増加をもたらそうと中国全土に号令をかけました(大躍進運動)。

 

彼の理論によるならば、この「生産手段の全人民所有」に基づいて、人民公社では、全員が公共食堂で無料の食事を支給されることになり、理想的な共産主義社会が一挙に実現されるはずでした。

 

しかし、現実には、責任者たちが大躍進の成果を誇示しようと穀物生産量を倍以上に吹聴したために、過大な供出を割り当てられ、そのノルマを果たせない末端幹部は「右傾」だと批判されるなどし、その無理がたたって、多くの農村は荒廃し、一部の地域では大量の餓死者や栄養失調による病死者が続出(2年後の1960年には、死者の総数は2700万人に達したといわれる)するなどして混乱の極に達しました。

 

そのため、軍のトップ──国防相の彭德懐(ほう・とくかい、ポン・ドーファイ)は、1958年末、自分や毛沢東の故郷である湖南省などを回り、鉄鋼生産で人手をとられ、穀物増産の過大な重圧に苦しむ農民たちの実態をつぶさに見て、その実情を毛沢東宛の3500余字の手紙にしたためて、急進政策の本質的欠陥に鋭くメスを入れ、経済法則より政治を優先させる「プチブル的熱狂性」が「左翼偏向」を犯してこのようになったのではないかという自分の感想を述べました。

 

毛沢東は、彭のこの指摘が自分に対しての批判であると見て腹を立てたのか、この手紙が“私信”であったにもかかわらず、それを周恩来に見せ、さらには、これを印刷して2日後の会議参加者にも見せ、これを「組織的で目的をもった右傾主義の綱領」だと評価するのです。

 

さらには、毛の権威を傷つけたとし、彭が他の三人と「軍事クラブ」という反党集団を結成していたと断じて、1959年7月の中央委第8回総会(廬山会議)で、彭の職務解任を決議。その代わりに、毛沢東の権威を絶対的なものとして奉ずる林彪を任命しました。

(その後、この林彪は『毛沢東語録』を数億部編纂して毛を神格化し、毛の妻──江青たち四人組と共に、毛沢東思想を絶対視する「プロレタリア文化大革命」へと突き進むようになります。)

 

毛沢東は、この彭德懐の解任を皮切りに、中国の大衆を鼓舞して自力更生のための国家総動員態勢を敷くようになりますが、その裏にはもう一つ、社会主義国家の盟主──ソ連の指導者(党第一書記)フルシチョフが、第20回党大会の閉幕の直後の、1956年2月24日深夜、7時間にわたって「個人崇拝とその結果について」と題する報告でスターリン独裁についての徹底的な糾弾を行い、スターリンと一線を画する「修正主義」路線を取るようになったことが挙げられます。

 

このソ連の影響を受けて中国にも「修正主義」が拡がるのを恐れたというのです。

 

実は、1957年12月、毛沢東一行がモスクワを訪問した時に、フルシチョフは毛沢東を無視し、その横にいた彭德懐に「天才的戦略家だ」という最大級の賛辞を送り、彭も「われわれの業績は偉大なソ連の支援のもとで得たもので、あなたを忘れることは永遠にありません」と持ち上げました。

そのことが、ソ連に対する不信と対抗心を抱くようになった毛沢東を刺激し、ソ連と彭德懐の関係に疑念を持つようになったことが、この解任の動機となったのではないかと見る者もいます。

 

これらのことから、はっきり分かって来ることは、毛沢東は彭德懐の見解がマルクス・レーニン主義の正統な理論と合致するかどうかということにだけに目を向けて、農村の荒廃という現実については事実上全くと言ってよいほど関心を寄せていなかったと言うことです。

 

彭德懐が、「経済法則より政治を優先させる左翼偏向」と言ったのは、実際の論文を読んで見なければ正確には分かりませんが、「集団化、機械化」ということで5000戸もの農民を一つに束ね、「多く、速く、立派に、無駄なく」という標語のもと、リーダーが途方もない生産量を自己申告し、それを「自主的」に実現するように強いる。しかも生産したものを自分で売りさばいたりすることを全く許さず、全部、人民公社に納品させる。こうした監督者全能の、まるで終身懲役のようなやり方のことを「政治」と言ったのでしょう。

 

それに対して、「経済法則」というのは、生産する農民の気持ちになって、やる気になれるように計らうこと。たとえば、「大躍進運動」の中で、農村で自然発生したと言われる「包産到戸」(生産の戸別請負制)──各農家が農業生産を請け負い、超過分は報酬を受けるというような、管理者の愛のこもった進め方のことでしょう。マルクス主義の固定観念にもとづく集団化、機械化方式(政治)を、仕事をやる気にさせるやり方(経済)よりも優先させる「左翼偏向」(マルクス主義至上主義)。これではいけないと彭德懐は主張したのでしょう。

 

それに対し毛沢東は、「組織的で目的をもった右傾主義の綱領」だと片付けてしまいました。これは、現実もなまの人間性をも配慮しない、なんと硬直化した評価でしょうか。

 

 

矛盾論の批判と克服(10)

デボーリンらは、「こうした見方で具体的な問題を分析し、ソヴィエト連邦の条件下では、富農と一般農民のあいだには、差異があるだけでけっして矛盾はないと考え、ブハーリンの意見に同意した。フランス革命を分析したときにも、革命前の労働者、農民、ブルジョアジーからなる第三身分のなかには、差異があるだけでけっして矛盾はないと考えた。」

 

このようなデボーリンやブハーリンの考え方に対して、毛沢東は、「かれらは、世界のひとつひとつの差異のなかに、すでに矛盾がふくまれていること、差異はすなわち矛盾であることを知らなかった」と批判しました。

 

しかし何度も繰り返すようですが、レーニンが例示した+と-など、人間の性質が関与していない「差異」の中には何らの「矛盾」も含まれてはいないのです。

 

統一思想の一元二性論によれば、人間世界のすべてのものは、単なる物質的側面(形状)だけで成り立ってはおらず、すべて形状と性相(精神的側面)との統一から成り立っています。富農、一般農民、労働者、ブルジョアジーというのは、そのうち形状面です。この形状面の「差異」だけで「矛盾」が生ずるのではなく、彼らの抱いている心構え(性相面)のあり方で矛盾が惹き起こされると見なければなりません。

 

それは真の愛の有無という問題です。真の愛を持っている富農やブルジョアジーは、決して一般農民や労働者から搾取しようとは思わず、反対に多くのものを与えようとするでしょうし、こういう階級社会のあることが人間の不幸の原因だと悟れば、法律を変えて階級制度を全廃し、民意のすべてを強く配慮する平等社会へと移行することに反対しないでしょう。

 

しかし、統一思想の立場から見れば、人間の愛の本性に合致するのは、聖書に、「神は自分のかたち……すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記1・27)とあるように、夫婦・父母・親子・兄弟姉妹という「四大心情圏」(家族同士の愛)のある家庭であって、毛沢東が試みたように、家庭的な愛の秩序を無視して国家の命令一下、5000人もの人々をひとまとめにして働かせる人民公社などではありません。

 

このことを理解しなかったので、後で述べるように毛沢東はこの「大躍進・人民公社化政策」で農民の生産意欲を喪失させ、餓死者を2700万人も出すというような大失敗をするようになるのです。これは、生産という形状面ばかりを考えて、人間の幸福感という性相面を全く配慮しなかった結果でしょう。

 

⒧マルクスの資本論が矛盾解決の根本原理となりうるか

 

毛沢東は、この人間の社会と歴史のうちに遍在する矛盾の本質と、それを解決する理論の見本となるのがマルクスの『資本論』だと述べています。

「事物の発展過程を始めから終わりまでつらぬく矛盾運動については、マルクスが『資本論』において、そうした分析を模範的におこなったことを、レーニンが指摘している。」

 

「マルクスの『資本論』では、最初に、ブルジョワ社会〔商品生産社会〕のもっとも単純な、……もっとも根本的な、……何億回となく出くわす関係──商品交換が分析されている。その分析は、このもっとも単純な現象のうちに……、現代社会のすべての矛盾(がること)をあばきだす。それからさきの叙述は、これらの矛盾の発展と、この社会の各部分の総和における発展……を、始めから終わりまでわれわれに示している。」

 

「中国共産党員は、この方法を会得しなければならない。そうしてこそ、中国革命の歴史と現状を正しく分析し、革命の将来を予測できるのである。」

 

では、マルクスは『資本論』の中でどんな分析をしているのでしょうか。マルクスはすべての商品には「使用価値」(人間のなんらかの欲望を満たすことのできる性質)と「交換価値」(その商品を生産するために費やされた労働の量)があり、その交換価値は「それに含まれている『価値を形成する実体』の量」によって、すなわち「労働の継続時間」で計られるのだと主張しました。

「(交換)価値としては、すべての商品はただ一定の大きさの凝固した労働時間でしかない」(『資本論』国民文庫⑴、79頁)。

 

これがとりも直さず商品の価格であり、それはすべて労働者の労働によってつくり出されたものであるのに、資本家はそのほんの一部を賃金として労働者に還元するだけで、あとはすべて横取りするのだというわけです。この「商品交換」という何億回となく出すわす関係の分析から、マルクスは「現代社会のすべての矛盾」をあばき出したと毛沢東は結論づけるのです。

 

しかし、商品の「交換価値」は果たして、すべてそれをつくり出した労働者の「労働時間」に還元してしまえるでしょうか。多くの商品は機械で生産されます。労働者はこの機械が正常に働いているかどうかを管理し、一つの機械から次の機械へと受け渡すだけのことも多いのです。この機械は一体何の価値も生み出さないと片付けてしまうことができるでしょうか。

 

マルクスの時代はまだ機械が発達していなかったので、マルクスはこの機械の働きを無視してしまったのでしょう。しかし、現代人はパソコンや携帯電話、自動車のナビなど、機械だらけの中で生きており、そのためにきわめて楽で便利で安全な生活をごく安く楽しむことができるのです。こういう機械を発明した人々の「使用価値」はどれほど大きいことでしょう。これからの発明者や製作者に、平均をぐっと上回るお金(交換価値)で謝礼しなくてもいいのでしょうか。

 

マルクスの時代にも、「畑にまいてある穀物」、「穴倉で発酵しているぶどう酒」など自然の「化学的過程」で価値が生み出されるものがあることをマルクスは認めていました。しかし、それらの自然の過程が生活に占める役割は小さいものでしたが、今やそうした労働を必要としない生産過程が生活全般を埋め尽くしていると言ってもよい高度な文明時代に私たちは生きているのです。

 

そのほか、ダイヤモンド、石炭、魚など、人間の労働を加えたから価値が生じたのではなく、自然の力で価値のあるものとなったものも数多くあります。また、骨董品、美術品、記念切手、ウィスキーのように、時間をかけて保管したというだけで価値が何百倍にもなるというものもあります。

 

また、経営者の目のつけどころが良かったために価値が生じたものもあり、アイデア、情報、知識などの労働時間で価値を測るのが不適切な商品も数多くあります。

 

こうしてみると、価値を労働者の労働時間だけに帰してしまおうとするのは、資本家が利潤を得るのはすべて労働者の労働からの搾取であるとして、資本家に罪を着せ、暴力革命を合理化するために捏造した理論だとしか思えなくなって来ます。確かに、中には人間の自己中心性によって、搾取だとしか考えられないケースもあるでしょうが、一律にすべてを搾取だとするのは正しいとはいえず、ケース・バイ・ケースに考えていく必要があると思われます。

 

マルクス自身、「どんな物も、使用対象であることなしには、価値ではありえない。物が無用であれば、それに含まれている労働も無用であり、労働のなかにはいらず、したがって価値をも形成しないのである」(『資本論』82)と言っています。これは商品価値の本質は使用価値であると自認していることに他なりません。この価値観に従って考えれば、その使用価値にふさわしい価格で売ることは、高くても不正だということにはならず、その儲けに見合う賃金を労働者に支払えば、搾取ということにはなりません。

 

しかし、統一思想は、そのようにだけ価格と賃金を定めることが最善であるとは言えず、経営者は真の愛と奉仕の精神に基づいて、買い手にはできるだけ安く売り、労働者にはできるだけ高い給与を払うべきであると見ます。

 

このようにして、自分とかかわるすべての人の幸福を願って真の愛をもって奉仕すれば、自分の良心も満足し、平和で幸福になると考えます。

これが統一思想の理想──共生共栄共義主義です。実際、このような原理に従って経営している企業は栄え、世の中から感謝と賞賛を浴びているのではいでしょうか。

 

このように、完全な自由のうちにあって、神と愛において直結する真の父母を中心として順次、家族→氏族→民族→国家→世界へと愛の輪を拡大させていくのが統一思想の理想とする世界で、社会主義がその政府の管理する人々の自由を認めず、力づくで政府の命令に服従させて働かせる社会を意味するのなら、そのような社会が最善のものだとは思いません。

矛盾論の批判と克服(9)

この創造過程にはどこにも矛盾というものはありません。矛盾が生ずるようになったのは、人間が自己中心的な欲望によって神から離れて堕落してしまった結果です(この過程の説明は複雑なので、そのことについては『統一思想要綱』を読むか、統一原理の講義を聴いていただけばと思います。)

 

この統一思想の立場から見れば、人間以外のすべての存在(天体、鉱物、植物、動物)には矛盾というものはなく、人間と人間の集まり――社会のうちにだけ矛盾があり、その矛盾は神がこの宇宙、人間をどのように創造されたか(創造原理)、その創造された立場からどのような過程を通って堕落したか(堕落論)、その堕落した状態からどうすれば本来の位置に戻れるか(復帰原理)についての統一思想(もっと的確には統一原理)の説明を読んでよく考えれば、どのようなものか理解できるようになり、その矛盾から脱出することができるようになります。

 

具体的にそのポイントを述べれば、一人一人が完全な愛の人となり、人のために生きることを自分の生き甲斐とするようになり(性相と形状の統一)、同じように愛の人となった異性と結婚して(陽性と陰性の統一)、愛の家庭を造る。その家庭で子女を生み殖やし、夫婦・父母・子女・兄弟姉妹という家族における四大心情圏を確立し、その家庭を拡大して氏族、民族、国家、世界の平和を形成し、地球全体を神を中心とする巨大な一家族とするということです。

(現実的には、これではあまりに時間がかかりすぎるので、完全な愛の家族関係を構築した家庭を中心として、「祝福」という手続きによって、一度にこれと同様の世界全体の愛の秩序を確立して行こうとしています。)

 

このようにすれば、すべての矛盾、闘争は消滅していかざるをえません。唯物論、無神論を前提としてものを考えるから、矛盾をなくすためには死ななければならないということになるわけで、有神論、一元二性論に基づく神中心の愛の世界的秩序を造ることができれば、死なずとも矛盾はすべて消えてゆかざるをえないのです。

 

(k)デボーリン学派への批判

 

なお、毛沢東はこれまで紹介したように、唯物論、無神論を前提とする、「矛盾の普遍性」の主張の吟味として、「しかし、それぞれの過程の、最初の段階でも矛盾が存在するかどうか。それぞれの事物の発展過程には、始めから終りまで矛盾運動があるかどうか」と問いかけて、ソ連のデボーリン学派の主張を批判しているので、この批判についても統一思想の立場から検討を加えておくことにしましょう。

 

ソ連のデボーリン学派は、「矛盾は、過程のなかに最初から現れるのではなく、過程が一定の段階にまで発展してはじめて現れるのだとみている。そうだとすれば、それ以前においては、過程の発展は、内部の原因によるのではなく、外部の要因によることになる。このように、デボーリンは、形而上学の外因論と機械論にたちかえってしまった。」

 

前にも説明したように、レーニンが挙げた六例のうち、人間の行動とは無関係の最初の五例のうちにはひとかけらの矛盾もなく、人間がかかわっている最後の「階級闘争」は奴隷主と奴隷、武士と一般庶民、資本家と労働者の利害が一致しないことによって生じ、利害の不一致は人間(特に支配者)の自己中心の排他的欲望によって生じたものだと考えざるをえません。

 

その矛盾は、毛沢東がいうように、その対立関係が生じた「始めから」あったに相違なく、発展の途上で生じたものではないと思われます。また、その間に生じた階級闘争は外部の要因によってもたらされたという点は少なく、内部の要因によるところが多いと思われます。

 

また、闘争の過程が終始同一だったとは見られず、この不平等が解消されるまでにはさまざまの変化、発展があったことでしょう。

したがって、「外因論」「機械論」がこの矛盾の発展の説明としてはふさわしいものではないということも承認できます。

 

しかし、ここでの矛盾の解消が不可能で、一つの矛盾が解消されてもまた別の矛盾が発生して来るという見解には賛成できません。人間社会に矛盾が生じて来るのは人間が自己中心の排他的欲望を持ち続けているからで、これがなくなり、すべての人間が人のために尽くすことに喜びを感じ、真の愛の人となれば、すべての矛盾は消え去っていくのです。「矛盾をふくまない事物などはありえず、矛盾がなければ、世界はない」などというのはどう考えても誤りだと言わなければなりません。

矛盾論の批判と克服(8)

(i)統一思想の相対関係の捉え方

 

さらに統一思想は、

①この性相と形状は陽性、陰性よりもっと根本的な相対関係(二性性相)である

②性相と形状のそれぞれが陽性と陰性の相対関係から成り立っている

③唯物論とは逆に、性相が主体(+)、形状(-)がその対象である

と見ます(第4図参照)

 

8の図1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このように、統一思想は唯物論を否定しますが、かと言ってその反対の観念論(唯心論)でもなく、さらにこの両者を機械的に並列させる二元論でもなく、性相が主体、形状が対象の立場で両者が授受作用によって一体となっていると見る唯一論(一元二性論)という独特の見方をするのです。

こういうものの見方を提唱しているのは、私の見る限り、統一思想しかありません。

 

(j)矛盾論と統一思想(一元二性論)の比較

 

毛沢東はレーニンの挙げた矛盾の六つの例に続いて次のように述べています。

 

「人間のもつ概念のひとつひとつの差異は、すべて客観的矛盾の反映とみなすべきである。客観的矛盾が、主観の思想に反映し、概念の矛盾運動を形づくり、思想の発展をうながし、たえず人々の思想上の問題を解決する」(『世界の名著78 孫文 毛沢東』中央公論社、374頁)

 

毛沢東はここで、唯物論に従って、まず最初に客観的な物質の状態があり、それが第二次的に主観的な意識のうちに反映されて来ると見ています。その最初の物質の状態のうちに「矛盾」があり、それが意識において「差異」として捉えられる。すなわち、客観的にあるこの宇宙には、そこに調和をもたらすような宗教上の神のような存在があるはずはない(無神論の世界観)ので、始めから終りまで矛盾したままで、単に次々に新しい状態に移行していくことしかできない。これが毛沢東のいう「矛盾の普遍性」ということなのです。

 

この宇宙はどこまで行っても矛盾・対立があるままで、調和するには至らない。こういう徹底した悲観的宇宙観、人間観なのです。

このように絶えず形を変えて、だんだんよりよいものへと「発展」していくが、その発展した状態でも決して矛盾はなくならず、単に前よりはましな状態に移っていくだけであるのだから覚悟しておけ、というのが毛沢東の言い分です。

 

こういう物質上に現れた「客観的矛盾」が第二次的な「主観」の思想に反映して、今度は「概念の矛盾運動」を形づくるようになる。こうして多少はましな思想へと「発展」し、だんだんに「たえず人々の思想上の問題を解決する。」しかし、矛盾は決してなくならないように運命づけられている。この宇宙は矛盾を持たない合理的な神によって創造されたものではなく、単に何の意味も計画もなしに、どういうわけでか生じて来たというだけのものだから、矛盾がなくなるはずはない。この矛盾運動によって多少はましな世界となる可能性があるのだからそれで我慢しろ。「この矛盾がやむやいなや、ただちに生命もやみ、死が到来する」。だから死を意味する矛盾の消滅を願うのは愚かなことだというのです。

 

同様に思想の「対立」と「闘争」がなくなることを願うのも愚かなことだと毛沢東は主張します。

 

「党内では、あい異なる思想の対立と闘争が、つねに生まれる。それは社会の階級矛盾……が、党内に反映したものである。党内に矛盾がなくなり、矛盾を解決する思想闘争がなくなれば、党の生命も停止する。」(同、374頁)

 

しかしながら、この思想に対し、次のように思わざるを得ません。

「このような『粛清の概念』や『破壊の概念』のある共産主義は人類が受け入れることができない主義です。そこでは愛や家庭までも、父母までも搾取の元凶であると言うのです。子供は父母の立場を自己の利益のために活用する存在として、搾取的な母体と見るのです。

共産主義は『世界を全部制覇しなければならない』と言って、そこに反対するものは全部首を切り、粛清しました。自己の同僚もお構いなく、父母もお構いなくみんな粛清したのです。友人も見忘れ、父母も見忘れ、みんな見忘れるのです。『ただ党だけがある!』。やせっぽちの党だけです。みれば見るほど恐ろしく、見れば見るほど冷徹であり、見れば見るほど情が離れていく党だけが『第一である!』と、こう言っているのです。……そこには理想がありません。」(文鮮明著『神様の摂理から見た南北統一』614~615頁、共産主義の闘争観念より)。

 

このどうにも始末に負えない唯物論、無神論のマルクス主義者――毛沢東に対して、一元二性論、有神論の立場に立つ統一思想は次のように宇宙と人間の成り立ちを捉えます。

 

まず、前にも述べたように、生物は実に整然と組み立てられた長い鎖のDNAがmRNAに転写され、ついでそれがタンパク質に翻訳されるという手順で形成されてくる。

 

また、月は直径で太陽と比べてちょうど400分の1の大きさで、同時に地球と月の距離が地球と太陽との距離のちょうど400分の1であるために、ぴったりと重なって皆既日食になるというように緻密に設計されており(クリストファー・ナイト、アラン・バトラー『月は誰が創ったか?』学習研究社、16頁参照)、また、宇宙が137億年前に突如発生した超高温・高圧の素粒子よりも小さな一点(ビッグバン)から生じたなどの事実から、この宇宙は、無形ではあるが超高度の知性を備えた実在する存在――宗教でいう神――によって創造されたと考えざるを得ません。このような捉え方をするのが統一思想の世界観です。

 

その存在は第5図で示すように、心情(愛を通じて喜ぼうとする情的衝動)から発する目的を中心として、内的性相(知情意)と内的形状(観念・概念・原則・数理)との内的授受作用によって創造される新生体(ロゴス)が、再び心情から発する目的を中心として、本性相と本形状(前エネルギー)との外的授受作用によって五感で感知できる実体となって現れて来ると見るのです。

 

8の図2

 

矛盾論の批判と克服(7)

(g)「矛盾の普遍性」という先入観の由来

 

このようにいっさいの先入観を排除して、理性的に考え、観察しさえすれば、この宇宙全体に矛盾が満ちみちているわけではなく、ただ人間と人間の集まりである社会の中にだけ、解決されなければならない「矛盾」があり、その矛盾は、人間一人一人の愛に欠けた自己中心的な欲望と支配力のうちにだけあるということが明瞭に分かって来るはずなのです。

 

にもかかわらずレーニンや毛沢東は、どうして宇宙のすべてのもののうちに矛盾が遍在している(矛盾の普遍性の主張)かのようにいうのでしょうか。レーニンや毛沢東ほどの頭脳があれば、私が今論証したように、矛盾は人間と社会の自己中心的な支配力のうちにのみあるということは簡単に分かるはずなのです。

 

「矛盾の普遍性」の主張は唯物弁証法と唯物史観(この宇宙は矛盾に満ちみちた物質のかたまりであり、その矛盾を順次解決するというかたちで歴史が展開して来たという先入観)から生ずるもので、レーニンや毛沢東はこのことを盲信し、その盲信に基づいて曲りなりにも共産主義革命に成功したために、この先入観を捨てることができなくなってしまっているのです。

 

この盲信は現実の宇宙、生物、人間のなり立ちと相容れない前提から出発しているために、レーニンも毛沢東も一応は成功したかのように見えますが、成功したのは敵(毛沢東の場合は蒋介石)を倒すという点だけで、本当に本来の人間性に合致した合理的で幸福にあふれた社会の構築はできませんでした。そのために、哲学的批判能力には欠けているが、現実に即した社会づくりの能力を持っていたフルシチョフ、ゴルバチョフ、鄧小平などの「修正主義」者の改革が必要となったのだと言わなければなりません。

 

このことについては、プロレタリア文化大革命で毛沢東思想が人民の幸福実現のために、どの点で役立ち、どの点で害毒を及ぼしたか、後で事実に即して批判的に検討してみることにしましょう。

 

ここではその検討の足場として、マルクス主義者のものの考え方の基本となっている「土台と上部構造」の関係について、唯物弁証法の一面性を統一思想の立場から批判し、それに対する代案を提起してみることにしましょう。

 

(h)土台と上部構造

 

マルクス主義者たちは、まず現実の経済的機構の土台とそれをささえる法律や政治、社会的意識との関係について、次のように捉えています。

 

「この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。」(マルクス『経済学批判』岩波文庫、13頁)

 

「土台というのは、そのあたえられた発展段階における社会の経済制度である。上部構造とは、社会の政治的・法律的・宗教的・芸術的・哲学的な見解と、これに照応した政治的・法律的・その他の機関である。」(スターリン『弁証法的唯物論と史的唯物論』国民文庫、142頁)

 

すなわち、マルクスやスターリンは、物質がまずあり、それに対応して精神面が生じて来るという唯物論の根本原理に従って、物質的土台(社会の経済的機構や制度)ができた後に、精神的上部構造(宗教、芸術、哲学などの社会的意識の諸形態やそれに照応する政治、法律などの諸機関)が生じて来るのだと主張するのです。

 

この立場からソ連では作曲活動に対してまでも、共産党はプロレタリア革命と社会主義の時代にふさわしいものでなければならないとして、社会主義リアリズムの立場から作曲作品に対して批判を加えるようになりました。それに対して、セルゲイ・プロコフィエフ(1891~ 1953)は革命が起こった1917年にアメリカに亡命し、ユーモラスなモダニズムの作品を発表して評判となりましたが、33年ソ連に復帰し社会主義リアリズムを受け入れて多くの名作を残しました。

 

一方、ドミートリイ・ショスタコーヴィッチ(1906~1975)は、社会主義リアリズムに沿った戦意高揚をめざす交響曲第5番や労働を讃える『森の歌』などを発表しましたが、その後、60年後半からは反体制派の詩を作品に取り上げ、西欧の前衛的手法をも取り入れて新境地を開拓しました。したがって、二回にわたる共産党の批判にやむなく歩調を合わせはしたものの、終生それに従うことはせず、独自の境地を開いているのです。

 

したがって、物質的な経験的な土台の上にそれと照応する精神的上部構造――この場合には作曲――が生まれると断言することはできません。音楽は美(さらに人によっては愛)を追求するものであって、物質的な富を追求する経済構造とは相対的に独立のものなのではないでしょうか。

 

このように進歩的といわれる音楽ですら社会関係の産物ではありません。

キリスト教、仏教、儒教などの宗教はそれが発祥した社会関係はすでに消滅していますが、現在まで存続し、現在の民主主義社会に大きな影響力をもっています。物質が精神を規定するのではなく、精神が物質を規定するというのです。

 

ともあれ、マルクス主義者が土台だと名づける物質的側面と、上部構造と名づける精神的側面との関係、――これは上述の陽性と陰性の二性性相と共に、我々が住んでいるこの宇宙の最も根本的な相対関係だといえます。

統一思想はこの精神面を「性相」、物質面を「形状」と名づけ、前に述べた「陽性」「陰性」と共に、宇宙を構成する最も基本的な相対的関係だと見ます。