Archive for 9月 10th, 2013

矛盾論の批判と克服(17)

(i)毛沢東の死と四人組の逮捕

 

その後間もなく、1976年9月9日に毛沢東が亡くなり、林彪の死後、林に代わって国防相となった老幹部の一人、葉剣英に、10月4日、「事態は切迫しています。一刻も早くご下命を」という電話が入ります。何事かと聞き返すと、それは海軍司令官の一人からで、「四人組」の逮捕を求めるものでした。

 

彼は、四人組から追い落とし工作の標的にされており、当時、79歳であった葉剣英自身も、かつて急進派から失脚させられる苦痛を味わっていました。そこで、葉は四人組の逮捕を「国慶節(10月1日)から10日間」と定め、直ちに華国鋒を訪れ、煮え切らない華に、「直ちに四害(四人組)を取り除こう」と耳打ちし、「決行日は6日ないし7日としよう」と提案。

 

その足で党や政府の重要機関が密集している中南海の執務室でまかせていた汪東興から最終的な準備状況を聞き、決行日を翌々日の「6日午後8時」と定めました。

 

まず、午後8時30分に行動組3人が、江青の自宅に入って「華国鋒総理があなたを隔離審査をする党中央決定を指示した」と言って逮捕。残りの張春橋、王洪水、姚文元は外界と隔絶された懐仁堂の広間に集まって会議をするという情報をつかんだので、そこに午後7時55分、華国鋒と葉剣英自身が広間に座り、汪東興ら行動組が屏風の陰に隠れて待ち受け、まず入って来た張春橋を無抵抗のまま逮捕。

 

次に、到着した王洪水は行動組の制止を振り切って約5メートル先の葉剣英に飛びかかったが、汪東興が小銃を構え、行動組の一人が王を組み伏せて手錠をかけ、姚文元は到着が遅れ、8時15分に「逮捕は自宅でするか」と汪東興が考えていた時、専用車で乗りつけたので、室外で逮捕しました。こうしてわずか約1時間半で四人組はすべて捕らえられたわけです(産経新聞取材班『毛沢東秘録上』産経新聞ニュースサービス、14-34頁)。

 

他方、汪東興が中央警衛団の張耀祠団長らに逮捕の作戦を伝えると共に、王洪水、張春橋、姚文元に6日午後8時から中南海で政治局常務委員会を開くから出席するようにと通知を出し、午後7時過ぎ、華国鋒、葉剣英がソファに座り、汪が屏風の陰に身を潜めていたという記述もあります(伊藤正著『鄧小平秘録下』産経新聞出版、38-41頁)。

 

通知を出し、それに従って出席したところを捕らえたという方が自然であり、この方が事実かもしれません。

 

その後、午後10時半(あるいは11時)から四人組逮捕についての報告と、華国鋒総理を党中央主席、党中央軍事委主席とし、毛沢東と同様、政治・党・軍事の最高指導者に決定したとあります。

 

ただし華国鋒は清廉潔白な人格の持ち主ではあっても、毛沢東時代の政策、路線を根本から見直し、新しい繁栄の時代を創始する見識と実力を備えているのは鄧小平だけだと葉剣英はにらみ、四人組逮捕後の激務が一段落したところで、息子に車で鄧小平を迎えさせ、五泉山の別邸にまで連れ出しました。

 

では、鄧小平の生き方は毛沢東とどこが違っていたか。それは毛沢東の矛盾観が実際に役立ったと思われる「抗日遊撃戦争の戦略問題」を検討した後で、比較してみることにしましょう。

 

 

四、矛盾の成立根拠の解明

 

さて、毛沢東は「矛盾論」を書いた1937年8月のすぐ後、1938年5月に「抗日遊撃戦争の戦略問題」(『世界の名著78 孫文 毛沢東』中央バックス407-445頁)を書いています。

 

この後著においては、毛沢東の矛盾観が弊害だらけの空理空論ではなく、非常に現実的な戦略理論となっています。

そこで、この「戦略問題」の理論構成を見ることによって、「矛盾」という捉え方が、どういう場合には現実で役に立ち、どういう場合には全く非現実的でその信奉者を苦しめることにしかならないかを検討してみることにしましょう。

 

1.戦略と戦術

 

毛沢東はまず「抗日戦争においては、正規戦争が主要であり、遊撃戦争は補助的である。………とすれば、遊撃戦争では、戦術が問題になるだけなのに、なぜ戦略問題を提起するのであろうか」『世界の名著78 孫文 毛沢東』中央バックス、409頁)と問題を投げかけています。

 

広辞苑を見ると、戦術とは「一個の戦闘における戦闘力の使用法、一般に戦略に従属」。転じて「ある目的を達成するための方法」とあります。それに対して、戦略とは「各種の戦闘を総合し、戦争を全局的に運用する方法」だと説明しています。

 

すなわち、ここで述べられているのは、戦術とは「一個の戦闘」に対応するものであるのに対し、戦略とは「各種の戦闘を総合」するものである。遊撃戦争とは「一個の戦闘」を意味するものなのに、どうして「いくつもの戦闘」の総合について考えなければならないのかと毛沢東は問いを投げかけているわけです。

 

ここでまず注意すべきことは、広辞苑の戦術の説明に「ある目的を達成するための方法」と、ここに「目的」という言葉が使われているということです。矛盾という概念はこの「目的」ということを度外視しては成り立たないのではないでしょうか。すなわち、ある目的を達成しようとしているのに、その目的の達成が難しくなるような条件が生じて来る。あるいは、その目的とは別の目的を達成しようとする動きが生じて来る。こういう場合にだけ「矛盾」という問題が発生して来るのではないでしょうか。

 

毛沢東は、この論文が書かれた1938年5月という時点において、中国は「大きくて弱い国」、それに対して、それを攻める日本は「小さくて強い国」だと言っています。敵(日本)は非常に広い地域を占領しているが、その兵は小さい国から来ているので兵力が不足している。そのため中国の遊撃軍は「内線」(敵に囲まれるような陣形)において正規軍の作戦に呼応するのではなく、「外線」(敵を囲むような陣形)において単独で作戦をおこなうようになっている。そのため正規軍とどのように呼応して動くかという戦略的な観点が必要になるのだというわけです。

 

2.戦争の基本原則――自己を保存し、敵を消滅させること

 

次に毛沢東は、すべての軍事行動の基本原則は、できるだけ自己の力を保存し、敵の力を消滅させることだと言い、この軍事行動の基本原則が、日本帝国主義を駆逐し、独力、自由、幸福の新中国を建設するという政治原則と結び着いていると言っています。

 

ここで、「矛盾論」では一度も出て来なかった「幸福」という概念が登場して来ます。

 

さて、戦争では勇敢に「犠牲となれ」といいます。この「犠牲となれ」というは、一見、「自己を保存する」ということと矛盾するようであるが、敵を消滅するためにも、自己を保存するためにも、犠牲が必要となるので、何ら矛盾しない。しかし、このように、「犠牲」ということは「自己保存」と「敵の消滅」のために必要となるものなので、その点、取り違いをしないようにと毛沢東は警告します。