矛盾論の批判と克服(20)
六、毛沢東の矛盾観の総合的批判
以上、毛沢東の矛盾観を根本から検討する手掛かりとして、文化大革命における毛沢東の言動、遊撃戦争についての毛のコメント、毛沢東と異なるスタンスを取る鄧小平の政治・経済の戦略を略述した土台の上で、総合的な批判を提起してみましょう。
1.矛盾の特殊性をめぐって
毛沢東は、「矛盾の普遍性」の次に「矛盾の特殊性」についての論考の中で次のように述べています。
「どんな運動形態でも、その内部には、それ自身の特殊な矛盾がふくまれている。この特殊な矛盾が、ある事物を他の事物から区別する特殊な本質を形づくっている。これがつまり、世界のさまざまな事物が千差万別であることの内在的原因、あるいは根拠と呼ばれるものである。」(『世界の名著78 孫文 毛沢東』中央バックス、377頁)
ここで毛沢東が、どんな運動形態にもその内部にはそれ自身の特殊な「矛盾」が含まれていると言いますが、それは「矛盾の普遍性」と称するものを検討した時に詳しく論じましたが、すべての事物、運動形態のうちには〝矛盾〟が含まれているという全く無理で強引な論法に基づく主張です。
この矛盾遍在の理論は、ヘーゲルがすべての「有限なものは自己自身の中で自己と矛盾し、それによって自己を止楊し、反対者へ移行する」(観念弁証法)と主張したのを唯物論的に改作して、「一切は、他と相互関係にありながら、自己の内部における対立物との闘争によって自己運動を起こし発展する」(唯物弁証法)と定式化し、それによって「世界を新たなものの生成、量から質への転化、古いものの消滅という諸過程の複合として認識」しようとした(『広辞苑第四版』2321頁)ところから理論的に要請されて出て来たものです。
それは、「資本主義的社会秩序、その反定立としての無産階級、戦いとられるべき綜合としての階級なき共産主義社会」(ヒルシュベルガー著『西洋哲学史Ⅳ現代』理想社、53頁)という対比で、革命の必然性を示そうとして、マルクス、エンゲルスから、レーニン、スターリン、毛沢東へと受け継がれて来た観念的な構成物です。
しかし、こういう物の考え方は、果たして現実と合っているでしょうか。その点を機械、人間以外の生物、人間と社会の三点から吟味してみることにしましょう。
機械について。これには明らかに何の内部矛盾もありません。もしあったなら、それは機械としての役割を果たすことはできません。弁証法に対立する世界観を機械論と言いますが、まさしくその名の通り、機械は特定の目的と構想のもとに、常に全く同じ役割を果たすように厳密に造られているのが良い機械です。
もちろん、その機械を正確、広汎に使いこなすためには、その機械の「特殊性」を細かく全部、正確に知っている必要がありますが、それは決して「矛盾の特殊性」ではなく、発明者、製作者の意図(そこに矛盾などありません)を知る必要があるのです。
機械は、上手に使えばいつまでも同じ効果を上げるのであって、〝否定〟も〝否定の否定〟もなく、対立、闘争、量から質への転化、発展などいっさいありません。
人間以外の生物について。人間以外の生物も、DNAの指示どおりになるのであって、その過程には基本的には何の矛盾も発展もありません。生きていかなければならないので、他の生物を食べたり、逆に食べられないように逃げなければなりませんが、いつも同じことをするのであって、そのやり方の間にも矛盾もなければ、発展もありません。
また、人間以外の生物には、自分を中心とした〝帝国〟を創ろうなどという野心もなく、食べ方や逃げ方などは生まれつきの本能や、親のしつけ方などで決まるのであって、千篇一律。何年経ってもその行動の仕方には著しい改良など見られません。
人間について。人間の段階に至って、人間には全く新しいものを発明する創造性があり、また、自分を中心とした国家や会社を造ろうという野心を持つようにもなるので、そうした創造性や自己中心性のために、その欲望が互いに相容れぬものとなる結果、初めて唯物弁証法が主張するような「矛盾」が生じて来ます。
しかし、人間には同時に人を愛し、相手のために尽くそうとする気持ちもあるので、こういう愛他主義的な心情は矛盾せず、人間の場合でも、常にその間に矛盾が生ずるとは限りません。
「統一思想」は、人間は本来、結婚を通じて、夫婦・父母・親子・兄弟姉妹という四大心情圏の開発を土台として、家族、氏族、民族、国家、世界を築き、矛盾ではなく、逆に尽くし合うことによって完全な愛の調和の世界を形成できるはずであったが、人類最初の一組の夫婦の「堕落」によって、その葛藤が代々拡がって、今見るような矛盾に満ちた世界になってしまったのだと見ます。
したがって、すべての人間の感情や行動が、最初から矛盾するようにはなっていないのであって、その点を〝悔い改めること〟が先決だと見ます。そういう前提で、毛沢東の言うように、「中国の側(の事情)だけがわかって日本の側はわからない、共産党の側だけがわかって国民党の側はわからない、プロレタリアートの側だけがわかってブルジョアジーの側はわからない、農民の側だけがわかって地主の側はわからない、有利な状況の側だけがわかって困難な状況の側はわからない」(『世界の名著78 孫文 毛沢東』中央バックス、380-381頁)というのではなく、すべての事情を詳しく知る必要があると見ます。
そうして、何よりも、その事情の知り方が、闘争の論理である唯物弁証法の固定観念からではなく、人間の本性をその根底まで掘り下げた愛の論理――「統一思想」の観点から検討して見なくてはならないと見ます。
毛沢東が主張する「労働者階級と農民階級の矛盾は、農業の集団化と機械化の方法によって解決される」などという論理は、唯物弁証法への盲従がもたらした暴論であり、そのために5000戸の農家を一つに束ねて働かせるという、およそ非人間的な人民公社絶対論となり、大躍進運動の大失敗――数千万人を餓死させるという悲惨な結末を招いたのです。
いくら詳しくさまざまな事情を考慮しても、その事情の知り方の根本となる思想の骨格が間違っていたのではどうにもならない道理です。
毛沢東は、「ただほかに変えようがないと決めこんだ一つの公式を、ところかまわず、千篇一律に、むりやりにあてはめる。これでは革命を挫折させるか、もともとうまくいっていることをも、ぶちこわすほかはない」(同、379頁)と自分で言っていますが、そういう下手な公式こそこの闘争の論理――唯物弁証法であると、大事に至らぬ前に早く気づくべきだったのではないでしょうか。
鄧小平も「唯物弁証法」が絶対正しいと信じ切ってはいましたが、現状をよく見て、「闘争を煽ってはならない」「できる事からしっかりやる」「自分の考えを画一主義におしつけてはならない」「豊かになれる条件を持つ一部の人や地域が他に先んじて豊かになってもかまわない」「西側の先進技術、資金を大量に導入しなければならない」など、闘争否定の愛の論理、和の論理、創造の論理を事実上広く組み入れたために、挫折した毛沢東路線を建て直すことができたのではなかったでしょうか。