Archive for 10月 22nd, 2013

矛盾論の批判と克服(23)

3.矛盾の諸側面の同一性と闘争性

 

毛沢東はさらに、矛盾の諸側面の同一性と闘争性との差異、相互関係について正確に理解する必要があると主張します。

「同一性」という概念は、次のような二つの状況を指示するものである。

 

①事物の発展過程における個々の矛盾の二つの側面が、それぞれ自己と対立する側面を、その存在の前提としていて、両者が一つの統一体に共存していること、

②矛盾する二つの側面が、一定の条件によって、それぞれ反対の側面に転化すること。(『世界の名著78 孫文 毛沢東』中央バックス、396頁)

 

そして、①の例として、生と死、上と下、禍と福、有利と困難、地主と小作農、ブルジョアジーとプロレタリアート、帝国主義による民族的抑圧と植民地、半植民地といったものがあると言います。

 

「対立する要求は、すべてこのようであって、一定に条件によって、一方ではたがいに対立しながら、他方ではたがいに結びつき、たがいに貫通し、たがいに浸透し、たがいに依存している。このような性質を同一性という」(同、397頁)。

しかし、それらの側面はいずれも、「一定の条件によって不同一性をももっているので、たがいに結びついている」(同)。

 

毛沢東が挙げている事例のうち、地主と小作農、ブルジョアジーとプロレタリアート、帝国主義と植民地などの同一性と矛盾については、確かにこういう複雑な説明が必要でしょう。

しかし、生と死、上と下に、こんなややこしい説明が当てはまるでしょうか。生は死ではない。上は下ではない。したがって、「矛盾」とか「同一性」という規定の仕方は、全く適切ではなく、単に「反対」を意味するとしか言えないのではないでしょうか。

 

統一思想では、このような対の関係を、単に「陽性と陰性の二性性相」の一例だと見、同一性と矛盾といった一見深みがありそうに見える神秘的な説明は、「唯物弁証法」という事実を曲げてとらえる、単なる詭弁のなせるまやかしだと捉えるのみです。

具体的には、この連載「矛盾論の批判と克服」のうちの、(5)~(9)などを読んでいただきたいと思います。

 

レーニンは、「弁証法は、どうして対立面が同一であることができ、また………それらは、どんな案件のもとで、たがいに転化しあいながら、同一となるのか………ということを(死んだ、硬直したものとならないように)研究する学説である」(同、396頁)と言っているようですが、それは、レーニンが革命に成功したために〝唯物弁証法〟がすばらしいものだと信奉者に買いかぶられるようになっただけのことのようにしか、私には思われません。

(上述のごとく、唯物弁証法を盲信した毛沢東の指導でなされた大躍進と文革は、みじめな大失敗におわっているのです。)

 

毛沢東は、「どうして対立面が同一であることができるのか」という問いに対して、それは両者が「たがいに存在の条件になっているからである」と答え、「これが同一性の第一の意義である」としています。

 

しかし、それだけで十分であるとはいえないと言い、「矛盾する両者が、たがいに依存するだけで、事はかたづくのではない。いっそう重要なことは、矛盾する事物が、たがいに転化することである。つまり、事物内部の矛盾する二つの側面は、一定の条件によって、それぞれ自己と反対の側面に転化し、自己と対立する側面がいた地位に転化する。これが矛盾の同一性の第二の意義である」(同、397頁)と説明しました。

 

「どうしてここにも同一性があるのか。みたまえ。被支配者であったプロレタリアートは、革命を経て支配者に転化し、もとの支配者であったブルジョアジーは、被支配者に転化して、相手がもといた地位に転化していく。ソヴィエト連邦は、すでにそうなっており、全世界も、やがてそうなろうとしている。その間に、一定の条件下における結びつきと同一性がないとしたら、どうしてこのような変化が起こりうるであろうか」(同、397-398頁)。

 

毛沢東はここで、事物内部の矛盾する二つの側面が、一定の条件によって、それぞれ自己と反対の側面に転化する例を三つ挙げています。

 

「プロレタリア独裁………を強化することは、こうした独裁をなくし、いかなる国家制度をも死滅させた、より高い段落へ進む条件を準備することにほかならない」(同、398頁)。

「共産党を創立し発展させることは、共産党とその他すべての政党制度を消滅させる条件を準備することにはかならない」(同)。

「共産党が指導する革命軍を建設し、革命戦争を進めることは、戦争を永遠に消滅させる条件を準備することにほかならない」(同)。

 

大変結構なことですが、その次には「戦争と平和はたがいに転化する。戦争は平和に転化する」。「第一次世界大戦や中国の内戦」のようにと言います。

ところが、また逆に「平和は戦争に転化する」。1927年の国共合作は、戦争に転化したし、いまの世界平和の局面も第二次世界大戦に転化する可能性がある。それは「戦争と平和という矛盾する事物が、一定の条件のもとで同一性をもっているからである」と言います。

これでは、平和=戦争だといえるだけで、平和になるか戦争になるかは、その時の条件次第でどちらとも言えないということになります。

 

「すべて矛盾は、一定の条件によって、その反対の側面に転化する」。そんなことは唯物弁証法によらずとも分かり切ったことであり、どういう時に戦争になり、平和になるかが予測できなければ、何の役に立つというのでしょうか。

 

「現在の、また歴史上の反動的支配階級」と、幸福にするという動機で〝革命〟を起こすのではなく、ただ人民をうまく取り込んでひとまとめにし、その力で今の支配者を倒して自分たちが新たに支配者となるというだけでは、ただ支配者が変わるだけで、人民たちは幸福にはなりません。

甲が支配していたのが乙の支配に変わるというだけでは、単に支配者が変わるというだけのことであって、何一つ人民が得るものはないのです。

 

唯物弁証法は、「すべての矛盾は、一定の条件によって、その反対の側面に転化する」(同、399頁)というだけで、物事を力の面だけで考え(闘争の論理)、幸福の増進という側面(愛の論理)については何も考慮していません。ここに、その考えの不十分さと、さらには恐ろしさがあると言わなければなりません。

 

支配者が変わっても、あるいは自分たちが支配者になったとしても、自分たちのことだけ考える利己心、貪欲が残っていたなら、何の得るところがあるでしょうか。

唯物弁証法は、毛沢東が自認しているように、「世界には運動する物質以外に存在するものはなく」(同、377頁)と、人間をも心を持たない単なる「運動する物質」とだけ見て、心情、愛、良心、創造性といった心の働きやそれを生かすにはどうしたらいいかという一元二性論(唯一論)の観点から見るところがないのです。

この点に、その理論の〝不足〟と〝恐ろしさ〟があると言わざるをえません。