Archive for 7月 2nd, 2013

矛盾論の批判と克服(7)

(g)「矛盾の普遍性」という先入観の由来

 

このようにいっさいの先入観を排除して、理性的に考え、観察しさえすれば、この宇宙全体に矛盾が満ちみちているわけではなく、ただ人間と人間の集まりである社会の中にだけ、解決されなければならない「矛盾」があり、その矛盾は、人間一人一人の愛に欠けた自己中心的な欲望と支配力のうちにだけあるということが明瞭に分かって来るはずなのです。

 

にもかかわらずレーニンや毛沢東は、どうして宇宙のすべてのもののうちに矛盾が遍在している(矛盾の普遍性の主張)かのようにいうのでしょうか。レーニンや毛沢東ほどの頭脳があれば、私が今論証したように、矛盾は人間と社会の自己中心的な支配力のうちにのみあるということは簡単に分かるはずなのです。

 

「矛盾の普遍性」の主張は唯物弁証法と唯物史観(この宇宙は矛盾に満ちみちた物質のかたまりであり、その矛盾を順次解決するというかたちで歴史が展開して来たという先入観)から生ずるもので、レーニンや毛沢東はこのことを盲信し、その盲信に基づいて曲りなりにも共産主義革命に成功したために、この先入観を捨てることができなくなってしまっているのです。

 

この盲信は現実の宇宙、生物、人間のなり立ちと相容れない前提から出発しているために、レーニンも毛沢東も一応は成功したかのように見えますが、成功したのは敵(毛沢東の場合は蒋介石)を倒すという点だけで、本当に本来の人間性に合致した合理的で幸福にあふれた社会の構築はできませんでした。そのために、哲学的批判能力には欠けているが、現実に即した社会づくりの能力を持っていたフルシチョフ、ゴルバチョフ、鄧小平などの「修正主義」者の改革が必要となったのだと言わなければなりません。

 

このことについては、プロレタリア文化大革命で毛沢東思想が人民の幸福実現のために、どの点で役立ち、どの点で害毒を及ぼしたか、後で事実に即して批判的に検討してみることにしましょう。

 

ここではその検討の足場として、マルクス主義者のものの考え方の基本となっている「土台と上部構造」の関係について、唯物弁証法の一面性を統一思想の立場から批判し、それに対する代案を提起してみることにしましょう。

 

(h)土台と上部構造

 

マルクス主義者たちは、まず現実の経済的機構の土台とそれをささえる法律や政治、社会的意識との関係について、次のように捉えています。

 

「この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。」(マルクス『経済学批判』岩波文庫、13頁)

 

「土台というのは、そのあたえられた発展段階における社会の経済制度である。上部構造とは、社会の政治的・法律的・宗教的・芸術的・哲学的な見解と、これに照応した政治的・法律的・その他の機関である。」(スターリン『弁証法的唯物論と史的唯物論』国民文庫、142頁)

 

すなわち、マルクスやスターリンは、物質がまずあり、それに対応して精神面が生じて来るという唯物論の根本原理に従って、物質的土台(社会の経済的機構や制度)ができた後に、精神的上部構造(宗教、芸術、哲学などの社会的意識の諸形態やそれに照応する政治、法律などの諸機関)が生じて来るのだと主張するのです。

 

この立場からソ連では作曲活動に対してまでも、共産党はプロレタリア革命と社会主義の時代にふさわしいものでなければならないとして、社会主義リアリズムの立場から作曲作品に対して批判を加えるようになりました。それに対して、セルゲイ・プロコフィエフ(1891~ 1953)は革命が起こった1917年にアメリカに亡命し、ユーモラスなモダニズムの作品を発表して評判となりましたが、33年ソ連に復帰し社会主義リアリズムを受け入れて多くの名作を残しました。

 

一方、ドミートリイ・ショスタコーヴィッチ(1906~1975)は、社会主義リアリズムに沿った戦意高揚をめざす交響曲第5番や労働を讃える『森の歌』などを発表しましたが、その後、60年後半からは反体制派の詩を作品に取り上げ、西欧の前衛的手法をも取り入れて新境地を開拓しました。したがって、二回にわたる共産党の批判にやむなく歩調を合わせはしたものの、終生それに従うことはせず、独自の境地を開いているのです。

 

したがって、物質的な経験的な土台の上にそれと照応する精神的上部構造――この場合には作曲――が生まれると断言することはできません。音楽は美(さらに人によっては愛)を追求するものであって、物質的な富を追求する経済構造とは相対的に独立のものなのではないでしょうか。

 

このように進歩的といわれる音楽ですら社会関係の産物ではありません。

キリスト教、仏教、儒教などの宗教はそれが発祥した社会関係はすでに消滅していますが、現在まで存続し、現在の民主主義社会に大きな影響力をもっています。物質が精神を規定するのではなく、精神が物質を規定するというのです。

 

ともあれ、マルクス主義者が土台だと名づける物質的側面と、上部構造と名づける精神的側面との関係、――これは上述の陽性と陰性の二性性相と共に、我々が住んでいるこの宇宙の最も根本的な相対関係だといえます。

統一思想はこの精神面を「性相」、物質面を「形状」と名づけ、前に述べた「陽性」「陰性」と共に、宇宙を構成する最も基本的な相対的関係だと見ます。