Archive for 7月 23rd, 2013

矛盾論の批判と克服(10)

デボーリンらは、「こうした見方で具体的な問題を分析し、ソヴィエト連邦の条件下では、富農と一般農民のあいだには、差異があるだけでけっして矛盾はないと考え、ブハーリンの意見に同意した。フランス革命を分析したときにも、革命前の労働者、農民、ブルジョアジーからなる第三身分のなかには、差異があるだけでけっして矛盾はないと考えた。」

 

このようなデボーリンやブハーリンの考え方に対して、毛沢東は、「かれらは、世界のひとつひとつの差異のなかに、すでに矛盾がふくまれていること、差異はすなわち矛盾であることを知らなかった」と批判しました。

 

しかし何度も繰り返すようですが、レーニンが例示した+と-など、人間の性質が関与していない「差異」の中には何らの「矛盾」も含まれてはいないのです。

 

統一思想の一元二性論によれば、人間世界のすべてのものは、単なる物質的側面(形状)だけで成り立ってはおらず、すべて形状と性相(精神的側面)との統一から成り立っています。富農、一般農民、労働者、ブルジョアジーというのは、そのうち形状面です。この形状面の「差異」だけで「矛盾」が生ずるのではなく、彼らの抱いている心構え(性相面)のあり方で矛盾が惹き起こされると見なければなりません。

 

それは真の愛の有無という問題です。真の愛を持っている富農やブルジョアジーは、決して一般農民や労働者から搾取しようとは思わず、反対に多くのものを与えようとするでしょうし、こういう階級社会のあることが人間の不幸の原因だと悟れば、法律を変えて階級制度を全廃し、民意のすべてを強く配慮する平等社会へと移行することに反対しないでしょう。

 

しかし、統一思想の立場から見れば、人間の愛の本性に合致するのは、聖書に、「神は自分のかたち……すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記1・27)とあるように、夫婦・父母・親子・兄弟姉妹という「四大心情圏」(家族同士の愛)のある家庭であって、毛沢東が試みたように、家庭的な愛の秩序を無視して国家の命令一下、5000人もの人々をひとまとめにして働かせる人民公社などではありません。

 

このことを理解しなかったので、後で述べるように毛沢東はこの「大躍進・人民公社化政策」で農民の生産意欲を喪失させ、餓死者を2700万人も出すというような大失敗をするようになるのです。これは、生産という形状面ばかりを考えて、人間の幸福感という性相面を全く配慮しなかった結果でしょう。

 

⒧マルクスの資本論が矛盾解決の根本原理となりうるか

 

毛沢東は、この人間の社会と歴史のうちに遍在する矛盾の本質と、それを解決する理論の見本となるのがマルクスの『資本論』だと述べています。

「事物の発展過程を始めから終わりまでつらぬく矛盾運動については、マルクスが『資本論』において、そうした分析を模範的におこなったことを、レーニンが指摘している。」

 

「マルクスの『資本論』では、最初に、ブルジョワ社会〔商品生産社会〕のもっとも単純な、……もっとも根本的な、……何億回となく出くわす関係──商品交換が分析されている。その分析は、このもっとも単純な現象のうちに……、現代社会のすべての矛盾(がること)をあばきだす。それからさきの叙述は、これらの矛盾の発展と、この社会の各部分の総和における発展……を、始めから終わりまでわれわれに示している。」

 

「中国共産党員は、この方法を会得しなければならない。そうしてこそ、中国革命の歴史と現状を正しく分析し、革命の将来を予測できるのである。」

 

では、マルクスは『資本論』の中でどんな分析をしているのでしょうか。マルクスはすべての商品には「使用価値」(人間のなんらかの欲望を満たすことのできる性質)と「交換価値」(その商品を生産するために費やされた労働の量)があり、その交換価値は「それに含まれている『価値を形成する実体』の量」によって、すなわち「労働の継続時間」で計られるのだと主張しました。

「(交換)価値としては、すべての商品はただ一定の大きさの凝固した労働時間でしかない」(『資本論』国民文庫⑴、79頁)。

 

これがとりも直さず商品の価格であり、それはすべて労働者の労働によってつくり出されたものであるのに、資本家はそのほんの一部を賃金として労働者に還元するだけで、あとはすべて横取りするのだというわけです。この「商品交換」という何億回となく出すわす関係の分析から、マルクスは「現代社会のすべての矛盾」をあばき出したと毛沢東は結論づけるのです。

 

しかし、商品の「交換価値」は果たして、すべてそれをつくり出した労働者の「労働時間」に還元してしまえるでしょうか。多くの商品は機械で生産されます。労働者はこの機械が正常に働いているかどうかを管理し、一つの機械から次の機械へと受け渡すだけのことも多いのです。この機械は一体何の価値も生み出さないと片付けてしまうことができるでしょうか。

 

マルクスの時代はまだ機械が発達していなかったので、マルクスはこの機械の働きを無視してしまったのでしょう。しかし、現代人はパソコンや携帯電話、自動車のナビなど、機械だらけの中で生きており、そのためにきわめて楽で便利で安全な生活をごく安く楽しむことができるのです。こういう機械を発明した人々の「使用価値」はどれほど大きいことでしょう。これからの発明者や製作者に、平均をぐっと上回るお金(交換価値)で謝礼しなくてもいいのでしょうか。

 

マルクスの時代にも、「畑にまいてある穀物」、「穴倉で発酵しているぶどう酒」など自然の「化学的過程」で価値が生み出されるものがあることをマルクスは認めていました。しかし、それらの自然の過程が生活に占める役割は小さいものでしたが、今やそうした労働を必要としない生産過程が生活全般を埋め尽くしていると言ってもよい高度な文明時代に私たちは生きているのです。

 

そのほか、ダイヤモンド、石炭、魚など、人間の労働を加えたから価値が生じたのではなく、自然の力で価値のあるものとなったものも数多くあります。また、骨董品、美術品、記念切手、ウィスキーのように、時間をかけて保管したというだけで価値が何百倍にもなるというものもあります。

 

また、経営者の目のつけどころが良かったために価値が生じたものもあり、アイデア、情報、知識などの労働時間で価値を測るのが不適切な商品も数多くあります。

 

こうしてみると、価値を労働者の労働時間だけに帰してしまおうとするのは、資本家が利潤を得るのはすべて労働者の労働からの搾取であるとして、資本家に罪を着せ、暴力革命を合理化するために捏造した理論だとしか思えなくなって来ます。確かに、中には人間の自己中心性によって、搾取だとしか考えられないケースもあるでしょうが、一律にすべてを搾取だとするのは正しいとはいえず、ケース・バイ・ケースに考えていく必要があると思われます。

 

マルクス自身、「どんな物も、使用対象であることなしには、価値ではありえない。物が無用であれば、それに含まれている労働も無用であり、労働のなかにはいらず、したがって価値をも形成しないのである」(『資本論』82)と言っています。これは商品価値の本質は使用価値であると自認していることに他なりません。この価値観に従って考えれば、その使用価値にふさわしい価格で売ることは、高くても不正だということにはならず、その儲けに見合う賃金を労働者に支払えば、搾取ということにはなりません。

 

しかし、統一思想は、そのようにだけ価格と賃金を定めることが最善であるとは言えず、経営者は真の愛と奉仕の精神に基づいて、買い手にはできるだけ安く売り、労働者にはできるだけ高い給与を払うべきであると見ます。

 

このようにして、自分とかかわるすべての人の幸福を願って真の愛をもって奉仕すれば、自分の良心も満足し、平和で幸福になると考えます。

これが統一思想の理想──共生共栄共義主義です。実際、このような原理に従って経営している企業は栄え、世の中から感謝と賞賛を浴びているのではいでしょうか。

 

このように、完全な自由のうちにあって、神と愛において直結する真の父母を中心として順次、家族→氏族→民族→国家→世界へと愛の輪を拡大させていくのが統一思想の理想とする世界で、社会主義がその政府の管理する人々の自由を認めず、力づくで政府の命令に服従させて働かせる社会を意味するのなら、そのような社会が最善のものだとは思いません。